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まともライブラリーというサイトがオープンしました【告知】
ニートwikiを立ちあげてくれたkuromeくんというニートが、また新たなサイトをオープンさせてくれた。まとも書房から出版されている文章が、全部読めてしまうサイトである。
ちなみにこれば僕がお願いしたわけでもないし、「サイトつくっていいですか?」と事前に確認されてOKを出したわけでもない。公開したあとに、「『14歳からのアンチワーク哲学』を無料で読めるようにしました!」と事後報告をくれたのだ。
こういうふうに取り組んでくれる人が出てくると、著作権放棄しといてよかったと思う。これは僕だけなのかもしれないが「自由にやってもいいけど、せめて一言入れてね」というハードルが一つ挟まっているだけで、どうもやる気が起きなくなるのである。別に言うだけなのだから簡単である。だが、どうしても「なんか文句言われても嫌だなぁ」とかそういう予感が勝ってしまうのだ。そしてたいてい、「自由にやってもいいけど」と言っている人の「自由」とは「俺が思う範囲の自由」であり、自由とは呼べないことの方が多い。
だから僕は完全な自由を好む。事前連絡不要で、何に使ってくれてもいい。勝手に印刷して出版してもいいし、映画化してもいいし、パロディAVをつくってもいい。ニケのキャラデザでおっぱいマウスパッドをつくってくれてもいい。
ただ、もしかすると僕が眉を顰めたくなるようなものに使われることもあるだろうが、そのときは「いやちょっとさすがにそれはやめてよ」と言うかもしれない。だがそれはあくまで何の強制力も伴わない「お願い」である。
これを言葉遊びだと感じる人もいるだろうが、強制とお願いはハッキリと断絶がある。強制は法や暴力などを根拠に相手に命令する行為だが、お願いはハッキリと相手の意志に委ねられる。前者はフィクションや物理的暴力を必要とするが、後者は「私はこう感じている」というたんなる事実の提示である。ただし、僕がお願いする相手に権力関係があるのであれば、それはお願いではなくなるのだが、権力関係のないフラットな状態なら、お願いはお願いのままである。
(強制の関係性に慣れ切ってしまった現代人は、権力関係がなくとも命令することしかできず、その惨状がXなわけだが・・・その話はあまりにも脱線が過ぎるので置いておこう)
kuromeくんは、普段からオープンソースソフトウェアの文化に慣れ親しんでいる人物だ。なので、権利関係や貢献⇔被貢献という概念を度外視したカラッとしたコミュニケーションに慣れているのだと思う。彼とかかわっていると俄然オープンソースの世界に興味が出てきた。オープンソースの世界は、労働なき世界そのものである。労働なき世界実現のヒントがそこにありそうだ。
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