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アンパンマンではなく、バイキンマンが必要な社会

会社や親戚の家に届いたお歳暮。サンタのブーツに詰められたお菓子。余ったおせち料理。「いらんから持って帰りや」と、周りの人たちは言う。30歳をすぎても食べ盛りの男子高校生のような扱いを受ける僕は、全てを引き受けて胃袋に詰め込む。

僕のような最終責任者が存在するコミュニティはいいもとして、存在しないコミュニティならどうなるか? 食べ物が台所やリビングを我が物顔で長期間陣取った後に、結局捨てられてしまうだろう。

やなせたかしは「ご飯を食べさせてくれるのがヒーロー」という考えで、アンパンマンを描いたらしい。戦後の焼け野原を経験した人にとって、その発想は極めて自然だ。

ところが、戦争を『はだしのゲン』でしか知らない僕たちの世代は、膨大なお菓子の山を前にして途方に暮れる苦労の方が身近に存在する。昔はどうかは知らないが、最近の『アンパンマン』は、盛大に食べ物を振る舞う人が次から次へと登場する。お腹いっぱいのところに、アンパンを渡された所で迷惑でしかない。

もはやアンパンマンは時代が求めるヒーローではないのだ。

では、今の社会に必要なのは誰か? それはバイキンマンであると僕は考える。

彼は常に空腹で、食べ物を求めている。しかし、食べ物を独占しようとする傾向にあることから、他キャラクターに嫌われ、食べ物の配給にあずかれないことが多い。

これはカバオくんをはじめとした少年たちの食欲がまだまだ旺盛であるから起きる現象だ。カバオくんが後期高齢者になり、アンパンマンの世界の平均年齢が65歳を優に超えたとき、何が起きるのかを想像してみよう。それは、食事を振る舞っても、誰も食べず、食糧が大量に廃棄される事態だ。

だったら、食事を振る舞わなければいいのだが、そうは問屋が卸さない。アンパンマンに登場する人々は、誰かに食事を振る舞うことに至上の喜びを感じていることは明らかだ。その喜びを奪ってしまえば、日がな一日、大河ドラマを眺めるくらいしかやることがなくなってしまうだろう。

ならば今こそ、バイキンマンが必要だ。彼は無尽蔵の食欲で、独居老人たちの振る舞う食事を平らげていくことができる。フードロス率は抑えられ、老人たちは生き甲斐を覚える。まさしくウィンウィン。

こんなことを考えていると、そもそもこの社会では特定の領域では「優しさの過剰供給」が起きていることに気づく。食事を振る舞いたい。誰かの世話をしたい。優しくしたい。そんな欲求が許される場所には優しさが過剰供給されてしまう。

例えば僕の息子は親戚中からクリスマスプレゼントを受け取る。僕は『ハリー・ポッターと賢者の石』の中で、ダドリーが大量の誕生日プレゼントを受け取る一場面をイメージせずにはいられなかった。

ダドリー役の男の子はいじめられなかったのか? それだけが心配だ。

一方で、この社会には優しさを受け取れずに苦しんでいる人が大勢いる。ワンオペ育児。貧困。ブラック企業。いじめ。DV。虐待。その他あれこれ。

息子が受け取る膨大なクリスマスプレゼントや、僕が胃袋に詰め込むお菓子や料理に向けられたリソースのほんの一部でも、苦しんでいる人々に向けられたなら、ほとんどの問題は解決するだろう。

どうせ優しさを余らせているのだ。食糧の過剰生産などを考慮すれば、優しさそのものが問題にすらなっている。ならば、もっと優しさを効率的に組織化できる方法があるはずだ。

そういう意味でも、我が物顔で優しさを独占しようとするバイキンマンの態度は重要だ。もちろん、無尽蔵にバイキンマンが優しさを受け取ってしまえば、受け取れない人も出てくる。しかし、みんながバイキンマンになってしまえばどうだろうか? それぞれが自分のわがままを主張し合うのだ。道徳的な議論には終わりがないが、とにかくわがままをぶつけあえるなら、どこかで落とし所を見つけるだろう。そしていずれは、優しさが適正に配分されるシステムが構築されていくに違いない。

アンパンマンはいらない。アンパンマンになる必要もない。アンパンマンは過剰供給されているのだから。いま必要なのはバイキンマンだ。

アンパンマンによって歪められた社会正義を正して、豊かで、優しい世界を創り上げるのはバイキンマンだ。

みんな、バイキンマンになろう。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!