42の選択
女性特有の、子宮系の心配ごとがやってくる微妙なお年頃。40を超えて、子どものことはもう諦める覚悟をしていたのに、婦人科を受診すると、言わば「最終通告」を目の当たりにすることになった。
今回は生理の様子が違って、明らかに不正出血の疑いがあって、不安を抱えながらも、結構長い間、受診するかの判断に迷っていて、ようやく意を決して受診を決めた時にはなぜか出血がなくなっていて、感覚的には普通の状態に。
それでも自分で内側を見れるわけでもないので、勇気を出して受診しました。これまでの経緯を説明して今の様子をエコーで診察してもらうと、不安要素が見つかる。それの結果が2週間後。
「それまでに、不妊治療に取り組むか、生理が重いのを治すか(つまり妊娠しない薬を服用する)を考えて置いてくださいね」
42歳の2択??
2週間で??
そうか、もう……。私の中でも、平均的な妊娠可能年齢を考えてもギリギリ。わかってる。初潮が来た時からカウントダウンされていることだって知っている。それなのに、今日明日で、育める可能性がある命についての結論が出せるかというと、そういう状況でも無かった。けれども残された時間を思うと、今日明日という問題。しかも、身籠って生むのは私なのだけれど、2人の問題だという。
それに向けてのエネルギーとバイタリティを注いだところで、妊娠できるか否かは神のみぞ知る。授かるにせよ、授かれないにせよ、その後の生活はガラリと変わる。
タイミングよく、専門家による健康相談というものがあると知らせてくださった人がいて、相談してみたら、それが具体的に言葉になって返ってきた。今する選択とそれによる何パターンかの未来予想図が脳内を駆け巡った。そこで、「2択とは限らないと思いますよ」との助言を受けて、ほんの少し、気が軽くなった。
毎日は選択の連続で、その連続が未来に繋がっていくことも、40年生きてきて知っているくせに……。
「ガンではありませんでした」
それを聞いて、その次の、2択の返事をしなきゃいけないのかと身構えた。ここに来てまだ「自然に任せたい」と、薬の服用は拒んだ。子宮内に見えている懸念点においても、お決まりの「様子を見る」にした。
確かにしんどい。生理時の経血の量と2日目の殺人的な腹痛。けれども1日に2錠の薬で排卵を止めて云々ということをしたいとは思わなかった。授かる、授からないということを考える前に、排卵を止めてしまう、というのは嫌だった。他に、方法はないのだろうかと思ってしまう。次にはググっている。すっぱり楽になれるなら、解放されるなら……と考えられたらもっと楽かもしれない。
少し前に、大阪のとある美術館で子宮を全摘出したアーティストさんの、現代アートを見た。それは立体の造形で子宮を模したモニュメントにいろんな世界が散りばめられていて、豆電球でライティングまでしてあった。
「やっと女性という枠からも解放されて…」というキャプションがついてあって、「ほお!!そういう考え方もあるのかぁ」と感動した。
私はしがみついている。きっと欲張りなのだ。
タイムリミットがもうそこに来ているのも知っているのに、うじうじボールを手に持ったまま、悩んでますとも言えず、どこにも投げられないで、こうしてここに書いている。書くことで整理をつけようとしている。
そういえば、甥っ子ちゃんが2歳になるまで、一瞬だった。
冷静に考えてみる。
子育てを少し、擬似体験させてもらっている。けれどもその間に、「私も!これから!」と強く思わなかった。願わなかった。
可愛いなぁ、幸せだなあと、ボケていたのかもしれない。
母にはなれなかった、という引け目のようなものは、きっとこれからもぶり返すことだろう。
ぬるりと生きている?
いや、そうでも無さそう。
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