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ソールヴェイの歌う風 〜ノルウェーの小さな物語6〜

「あ、啓介、あれがヘッダール教会」

自然をこじ開けるように森林地帯を抜けたあとのやや開けた国道沿いにその教会はあった。走る車窓からも確認できるほどの距離に立っている。当初の目的地であったこの地をいつの日かの約束として残し、今は小さな残像だけを瞼の隅に焼き付けて啓介はアクセルを踏み続けた。

隣に座る昨日会ったばかりの女性と既にファーストネームで呼び合っている。不思議にも、それが実はずっと前から約束されていたことのように感じる啓介だった。

やがてヘッダールを過ぎて数十分も走ると、見晴らしの良かった風景もいつのまにか木々が両脇に迫る緩い上り坂に変わっていた。いよいよ山越えの入り口といった感じだ。

山を越えると聞き、途中の行程と時間を考え、最寄りの街にまず立ち寄って二人分の食料と飲み物を買い込んでおいた。夜間の山間部の寒さを考えて、念のために二着買っておいた目立つ色彩のジャケットはサイズこそ啓介のものだったが、一着はニーナに預けた。

緊急のショッピングとなったが、啓介がこれまで常に周囲に向けてきた乾いた視線は影を潜めていた。目の前にある人・物・自然のあらゆるものが心の中にある感情の糸を弾き、硬くなったものをほぐしてゆく。啓介はそんな新鮮な感覚を手に、急ぎ足でカートに物を詰め込む一瞬一瞬を堪能した。

己を取り巻くものが興味と関心で満ちている。それは多分、ニーナが世界を見てきた眼差しに重なっていたのかもしれない。なんとなく啓介はそう感じた。

ただ一つ、先ほどからニーナの声にはどこか戸惑いが混じっている。空中の分子さえ弾ませてしまうような昨日の溌剌とした印象が失せているのが気がかりだった。


ラジオから五時の時報が流れた。日はまだまだ沈む気配がない。

対向車線では思い出したように車がすれ違うが、時折見え隠れする人間社会の気配の外側では全てが自然の懐にすっぽり包まれている。車内の二人だけが別世界から触れてはならない聖域を覗き込んでいるような錯覚に襲われる。

啓介とニーナは内容を慎重に選びながらといった感じで、他愛のない言葉を交換していた。それはノルウェーと日本の一般的生活に関する何かだった。

何度目かの話題の転換があり、ふと言葉が途切れ、真空の時間が二人に割り込んできた。

「あの、母のことなんですけど」

「え?」

ニーナが決意を秘めたような視線でこちらを見つめながら切り出した。啓介はそれを力強く頰で受け止めた。

「実は・・・。母が入院したのは自殺未遂なんです」

「えっ!」

予期せぬ告白に啓介は戸惑うしかなかった。

「こんなに無理して助けてもらっているので、一応お話ししておきます」

「でも、話したくなければ話さなくてもいいよ」

「聞きたくないですか?」

「いや、そういうわけじゃなくて・・・」

ニーナはフロントガラス越しに、夕暮れ前の黄色く染まった陽光をぼんやりした目で追っていた。そして決心したかように一つため息をついた後、続けた。その吐息の音は、重い扉を開け放とうと回した鍵のノイズのようで、ただ小さく周囲の分子を揺さぶった。啓介の耳にはそれが何かの予言となって届いたのだった。

「実は、過去にも二回自殺未遂を起こしているんです、母は」

車内の空気が重くなってゆく。

「弟によると・・・、今回もそうですけど、睡眠薬をちょっと多めに飲んだということで、大事には至らないと思います。でも、全部が私がオスロに出てからの出来事なので・・・。前はそんな気配もありませんでした。私の大学進学に父の影を重ねたのかもしれません」

ぽとりと漏らされた過去の影。じわじわとざらついたものが心に広がる。

「え?どういうこと?」

「私の父は、私が十二歳の誕生日を迎える前に突然いなくなりました」

重大な告白だった。

「理由は何だったの」

冷静を装って投げた質問にニーナは無表情で首を振った。

「わかりません」

「ある日突然、理由もわからないまま?」

「ええ」

「どこに消えたのかもわからない?」

「ええ」

「今も?」

ニーナが一瞬答えにつまった。その一瞬の意味を啓介はすぐに悟った。

沈黙の後に告白が続く。

「多分、アメリカにいるんだと思います」

「アメリカ?」

「ええ」

「どうしてそう思うの?」

「父はもともとハウゲスンの高校で歴史の教師をしていました。父の歴史好きの影響で今は私も歴史の勉強を大学でしています」

「なるほど、そういうことなんだ」

「二ヶ月ほど前のことだったと思います。レポートのためにアメリカの研究者たちによって書かれた論文集を読んでいました。そこに著者の一人として父の名前を見つけたんです」

「同姓同名ってことはないの?」

「もちろんそれはありえますけど、論文の内容はノルウェー考古学に関するものでした。父も高校教師をしていた時代から論文を書いたりしていましたが、その論文のテーマと内容が父の関心領域と同じだったので・・・。多分間違い無いと思います」

「そうなんだ。それで、連絡したの?」

「いえ・・・」

「どうして?」

「なんだか、連絡すると父の存在を壊してしまうような気がして」

か細くつぶやくような答えだった。

でも、君たちの家庭はお父さんが黙って出ていったことで壊れたんじゃないの?

啓介は自分の意見を飲み込んだ。

考え方、感じ方は人それぞれだ。そうやって周囲に無関心のバリアを張って身を隠してきた。それが啓介自身のこれまでの生きるための原則だった。この原則に従えば大抵のことは目の前を黙って通り過ぎていった。

しかし今、ニーナの判断に納得しかねるものがあった。心に棘が刺さり、何かが重く引っかかる。飲み込んだ言葉が熱を孕む。どこからともなく放たれた緑色の視線が鋭い鏃となって胸に突き刺さった。濁った思いが溢れ出す。啓介は自身を内と外から包囲する熱いものに戸惑った。

これまで通り身をひそめようとする自分とニーナの行動を理解しようとする自分。そしてそれらをそそのかそうと皮膚の下を駆け回る熱い感情の濁流。こうしたものが互いに安全な距離から冷静な視線を投げ合っているのだ。

「もうあなたの顔も兄や妹の顔も見ることはないでしょうね」

そう言ってあの日から断ち切った自分の過去。自分自身も何かを壊して去っていったのではなかったか。

「いいや。あの日あの言葉が出た瞬間よりもずっと前からお前は破壊し始めていたじゃないか」

突然、緑色の視線が嘲笑しながら言い放った。

啓介はニーナの父親に自分の影を重ねていた。

「父の論文は素晴らしかったです」

言葉が継がれた。そこには先ほどまでの湿った感じはない。

「すごくたくさんの気づきがありました」

「それは研究領域が同じだからわかるのかな?」

ニーナは小さく頷いた。

「父がいなくなった理由がその時ちょっとわかったような気がしました。父は家族よりも自分の生きたい人生を選んだんだと思います」

「え?」

先ほどの濁流が突然紫色の炎に変わり、めらめらと身を焦がし始める。釣り合っていた天秤が焼け落ちる悲鳴。

全然納得できないよ、それ。ねえ、ニーナ・・・。それってさあ・・・。

勝手な思いが肩にのしかかる。しかしその重さが自重に変わり、啓介自身を内部から押しつぶそうとする。

「でも、お母さんと弟さんはどうなの?お父さんがアメリカにいるらしいことは知ってるの?二人はそれでいいの?」

混じり合わない感情が啓介の声を尖らせた。

「いいえ。母は父が消えて以来、精神的にすごく不安定になって・・・。私がオスロに出る前はそういう部分を感じさせませんでした。でも、危険な程度でなくてもこれで三回目の自殺未遂ですから・・・。多分、母もなんとか父が蒸発した事実を乗り越えようとしているんだと思います。ただ、それが難しいみたいで・・・。今でもまだ・・・。愛する人が理由もわからないまま突然いなくなったんだから仕方ないですよね。だから、もし今、父の居場所を知ったりしたら、母が本当に壊れてしまうんじゃないかと怖いんです」

「で、弟さんは?」

「弟は父がいなくなった時、まだ小さかったから・・・。母ほどには父に対するわだかまりは抱えていないみたいです。でも、今は一人で母のそばにいることで、いろいろと背負い込んでしまっているような感じがします。それについても非常に責任を感じています。私には見せないんですけど、彼は彼なりに毎日母を見ていて何か感じるところがあるみたいで・・・。だから多分・・・」

そう言い終える言葉は重い涙へと変わり、やがて激しい嗚咽となった。

家族を気遣いながらも自分の人生を生きることの難しさ。自責と悲哀。それら複雑なもののバランスを必死に支えるものは何なのか?ニーナ自身と蒸発した父親、そして故郷に残してきた家族。いずれを摘み上げたところで脆くも崩れてしまう人間関係。

啓介は一瞬の激情が自身の内に残した焼け野原を眺めた。ぽっかりと煤けて広がった心象が波を鎮める。

ニーナは今、自分の歩む人生の途中に父親の影を感じ取り、恐れているのかもしれない。自分自身が消え去ってしまうことに不安なのかもしれない。啓介は皮肉にも、自身もその影法師なのかもしれないと感じていた。

「ごめんなさい」

涙をぬぐい終えた栗色の瞳がシートで姿勢を直した。

「いや、こっちこそごめん。さっき一瞬イライラしてしまった」

隣から「そうなの?」といった表情が返ってきた。

「でも・・・」

ハンドルの先に現れ出る道路を見つめながら、啓介は形のある過去をたぐり寄せていた。

「僕のやってきたことも君のお父さんと同じだよ」

「え?」

「僕も自分の家と家族を捨てて生きてきたから」

「どういうこと?」

「もっとも、僕の場合、やりたいことのために捨てたんじゃないけどね」

「あなたが捨てたの?」

「いや・・・」

「捨てた」という言葉がしっくりこないことを啓介は改めて自覚した。

「逃げたのかな?」


啓介は改めて自分の生まれ育った環境と生い立ちについて、先ほど触れなかった部分を語り始めた。いかに自分が自らの血に交われなかったか、出自を疎ましく思っていたか、家族の期待を前に身を縮め、息を殺して生きてきたかを話した。不安を避けるように周囲の人間への関わりを忌避し、心を空にしながら生きてきていたことを告白した。突然の安達家の破滅と離散、そして・・・今この瞬間の葛藤。全てを吐露した。

「でも、今、こんな風に過去を言葉にしてみて気づいたんだけど・・・」

啓介はニーナの話を己に重ねながら感じたものがあった。隣でフロントガラスの先を一緒に見つめていた瞳がゆっくりとこちらを向くのがわかった。

「僕はどうして今までそういう風に生きてこなければいけなかったのかわからない」

それだけではない。

「君のお父さんは探し物を探しに飛び出した。でも・・・、僕は探し物さえ持っていない」

勝手な思いだったが、今、啓介はニーナと彼女の父親が少し羨ましくもあった。二人が音信不通の中でもどこかで繋がっている気がした。少なくとも、ニーナは自分の父親の探しているものを知って、その価値を認めている。もちろんその裏には大きな悲しみがあったはずだし、説明不可能な葛藤もあっただろう。置いていかれた身なのだから。

「あなたの家族は今どうしているの?」

「散り散りになった」

イライラがそのまま言葉になって周囲に砕け散った。

「お父さんは?」

「知らない」

尖った返事が跳ね返り自分の胸に刺さった。濁った濃緑色の感情がドロドロと漏れ出す。

そのままニーナの次の言葉を啓介は待った。何か話して欲しかった。声が聞きたかった。流れ出すものをせき止める力が欲しかった。すがろうとする感情とするりと滑り落ちてゆく思いが交錯する。

しかし、そのままその話題を継ぐ言葉は聞かれなかった。瘴気をはらんだ沈黙だけが現れては尾を引きながらあとに消えていった。



後記

『ソールヴェイの歌う風(六)』、最後までお読みくださり、ありがとうございます。

この小説は私個人が実際にノルウェーを一人旅した時の記憶に基づき書き下ろした創作小説です。滞在した当時の状況をできるだけ忠実に再現したつもりですが、登場人物に関しては実在の人物とは一切関わりがございません。

作品中、文学表現の可能性を試すべく、画像や音楽を貼付しております。筆者が抱いた心象風景をできるだけ読者と共有できればとの考えに基づく一つの試みです。併せてご堪能いただけると幸いです。

今回もノルウェーのPopミュージックをご紹介しておきました。随分と前から気にかけていた歌手の方です。軽快なノルウェー語の響きをお楽しみください。私自身、全然意味は理解できないんですが。

冒頭、ヘッダール・スターブ教会について触れましたが、実はまだ訪問できていない場所でもあります。啓介同様、いつか訪れる日を思い描いているところです。

最後に、作中貼付した画像は以下の無料画像サイトからお借りしました。スペースの都合上、一つ一つの作品に関する詳細を記すことができません。この場をお借りしてお詫びするとともに、素晴らしい作品を無料で提供されてくださるアーティストの方々に対し、深く感謝いたします。

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