ソールヴェイの歌う風 〜ノルウェーの小さな物語7〜
七
道路脇の木々との距離が次第に近くなってくる。アクセルの踏み込みも強くなってきていた。いよいよ本格的な山登りになるのだろう。二人を乗せた赤い車は車内に立ち込めた重い空気に邪魔をされるように、喘ぎながらゆっくりと高度を重ねて行った。
啓介とニーナはしばらく言葉を交わさないまま、お互いが口にしたことを反芻していた。二人を取り囲む陽光の黄色が幾重にも重なり、濃さが増してきていた。夜はまだまだ遠くにある。そんなことを予感させながらも、確実に闇が忍び寄ってきていることを感じさせた。
傾き始めた陽の光を遮って物体が作り出す漆黒の切れ端。その光の現し身が意思を持った生命のように四方からこちらを窺う。このまま先、何時間もその視線に晒され、沈黙に支配され続けるのだろうか。
きっとニーナは今、母親と弟に対する罪の意識をまた一つ新たに背負い、自分を責めているんだろう。そして、母親の容体と弟の精神状態について大きな不安を抱いているんだろう。
ふと、啓介は自分自身が家族に対してそうした類の感情を持ったことがないことを思った。
ハンドルを握りながら全然理解できないままに流していたカーラジオから、突然記憶を揺さぶる音楽が聞こえてきた。確かに聞いたことのあるクラシック音楽だが曲名は知らない。柔らかい音色が凍りついていた感情をゆっくりと溶かしてゆくようで、啓介は考えることをやめ、しばし心を預けた。
溶けて広がった感覚が人の温もりを思い起こさせた時、何かが言葉に変わった。
「なんだかこの曲、聞いたことがある」
沈黙をこじ開けたのは無意識のつぶやきだった。そこにニーナがふわりと言葉をかぶせる。
「これはエドヴァルド・グリーグの劇音楽『ペール・ギュント』の中の曲で『ソールヴェイの歌』です。第四幕で歌われるものです」
「凄い。音楽にも詳しいんだ」
「エドヴァルド・グリーグはノルウェーのベルゲン出身の作曲家ですから。もっとも、グリークが生まれた頃はまだスウェーデン=ノルウェー連合王国でしたけど」
「グリーグ?ベルゲン?」
先ほどまでの濁った思考は今、小さな好奇心によって吹き払われた。
「ベルゲンはノルウェー第二の都市です」
「へえ。でも、『ペール・ギュント』っていうのは聞いたことあるかも。『山の魔王の宮殿にて』とかなんとかいうのは違うかったかな?」
「ああ、それも組曲『ペール・ギュント』にある曲ですね」
「やっぱり。小学生ぐらいだったと思うけど、音楽の授業でレコードを聞いたことがある。あの曲だけはすごく印象に残ってる。なんかこう、『おどろおどろしい』やつ」
啓介はweirdという単語を当てはめたが、頭の中に思い浮かんだ日本語は『おどろおどろしい』だった。心の内を言葉に変えられないもどかしさ。日常的に隣り合わせる焦燥感。そんなもやもやと対面しながらも、耳に触れる異国の欠片と自分の中にある根源との邂逅に頰が緩んた。
つられるように同乗者の口元にも笑みが膨らんだ。
「音楽で人をそんな気持ちにできるんだってちょっと驚いたよ」
「『ペール・ギュント』は元々はヘンリック・イプセンの書いた戯曲です。それにグリーグが曲を作って歌劇にしたものです」
「イプセンも聞いたことのある名前だな」
「ヘンリック・イプセンはエドヴァルド・グリーグと同じ時代を生きたノルウェーの作家で、『人形の家』などが代表作です」
「えっ、文学にも詳しいの?」
「ああいう場所でアルバイトをしていますから、ノルウェーの文化全般については一応知っています。専門分野以外は最低限の知識ですけど」
そう言ってニーナは今度は恥ずかしそうに下を向いた。自分の持つ知識を語る時の彼女の声が心地よかった。その言葉は生き生きと空気の隙間で弾んでいる。その軌跡に一点の曇りもない彼女自身が見える気がした。信じているものに真摯に向き合う裸の姿勢がそこに感じられた。
「そうなんだ。で、専門はノルウェーの考古学というわけ?」
「ええ、まあ」
「そうか・・・」
自分は何をこれまで信じ、向き合ってきただろう。そう啓介は自問した。
「僕は日本人なのに、本当のところでは何も日本のこと知らないな。何か専門的な知識もないし」
するりと滑り落ちるように漏れ出た心のため息。
「あ、でも、私なんてまだ大学生ですから、全然大したことないですよ」
その謙遜がかえって自身の薄っぺらさを痛感させた。啓介には謙遜で隠さねばならないものさえなかった。
「ニーナは芸術も好きなの?」
「え?芸術ですか?まあ、好きな方だと思います」
「『ペール・ギュント』の公演も見たことある?」
「ええ。大学に入ってから一度見に行きました」
「どうだった?」
「素晴らしかったです・・・・。登場人物の口にすることは荒唐無稽なんですが、形式上、あれは詩なので、耳で捉える芸術としては価値の高いものだと思います」
ニーナが素晴らしいと形容した感情は啓介の内で形にならなかった。自分が生きてきた時間の中で魂が揺さぶられるようなシーンが描き出せなかった。詩的なものへの感動がどういったものか啓介は脳裏に描けなかった。過去という時間が砂のように意識からこぼれてゆく。自分がどこからやって来たのか。そして、これからどこへ行こうとしているのか。
日が沈みかかった山道の陰からあの緑色の瞳が侮蔑の視線を投げていた。
道は勾配を増し、岩盤を切り刻みながら緩いカーブを描く。木々の間隔が広くなり、密度の薄くなった山の景色から光が徐々に失われていくのがわかる。目に入る対象物全てが一様に暗い背中をこちらに向け始める。少し白んだガラス面は外気が一気に冷え込んだことを語っていた。
街灯がない黄昏時の山道をヘッドライトの明かりを追いながら登って行く。スカンジナビアの夏の日は長い分だけ去り際の駆け足は際立っていた。車内ではニーナの柔らかい声が空気を温めている。啓介は『ペール・ギュント』がどんな話なのかを解説してもらっていた。
「主人公は題名と同じペール・ギュントという男の人です。物語は彼が二十歳の頃から始まります。どんな人物かというと・・・」
一瞬、言い淀んだような間が割り込む。
「簡単にいうと、彼は嘘つきで喧嘩っ早く、仕事嫌いな上に誰からも相手にされない男です」
「碌でもない奴なんだ」
「ええ。お祖父さんの代までは裕福だったということになっていますが、父親が散々に道楽をして亡くなり、母親オーゼと貧乏暮らしをしていました。その母親はペールを溺愛して育てます。ある日、ペールは元恋人のイングリッドの結婚式に呼ばれもしないのに出かけます。そこで出会ったのがソールヴェイです。先ほどの曲の女性です。ペールはソールヴェイに恋をしますが、結果的には友人の花嫁であるイングリッドを山に連れ去ります」
「はあ?」
啓介は唖然とするしかなかった。
「本当にひどい話です」
隣から深くため息が届いた。そのため息の裏側にはたとえ物語であれ、同胞を通して邪悪の影を話すことに対するためらいがうかがえた。
「でも、ペールは翌朝イングリッドにも飽きると、嘆き悲しむ彼女を山中に捨て去ってしまいます。イングリッドはペールのことを愛していたんですが、ペールはソールヴェイが忘れられなかったんです」
啓介は力なく首を左右に振るしかなかった。
「花嫁を奪われた村人たちはペールを殺そうと探しますが、山の中を逃げるペールは魔王の国の娘に出会います。そして魔王の国を乗っ取るために彼女に結婚を申し込みます」
「大胆だね」
「そうですね」
「ペールってバカなのかな?」
「どうでしょう?」
それをバカという月並みな言葉に当てはめていいのか?と眉間に皺を作るニーナの表情が脳裏に浮かんだ。
「ところで、この魔王の国というのはトロルの国です。トロルというのはスカンジナビアで語られている伝説上の怪物です」
「トロル?なんか髪の毛が逆立った小人みたいな?土産物屋で妙な人形をいっぱい見たけど」
「あ、多分それだと思います」
啓介はたびたび目にした人形の姿を思い浮かべてみた。
「山の小人みたいな印象しかないけど・・・。それって悪い怪物なの?」
「まあ、そうですね。いろんな姿をしていて、毛むくじゃらで首が二つあったり、目が三つあったり・・・」
「ああ、そりゃ印象悪いね。悪者って感じがする」
軽い笑いが空気を揺らし、乾いた車内を潤す。
「でも、中には悪意のない悪戯者って設定もあって欲しいな」
「トロルにですか?」
「うん。三つ目のやつなんてさ。見てくれは悪いけど善人だったりするパターン。映画やテレビドラマだと、最後に善意のトリックの種明かしをするってやつね」
隣でニーナがどこか困ったような顔で考え込んでいた。
「ちょっと悪さをするってだけのトロル」
「童話には出てきそうですけど、例えばどんな悪さをするんですか?」
「うーん。後ろから『だーれだ?』って目隠ししたり、大切なものを隠したりとか」
「大切なものを隠す?何を?」
「えっと・・・。財布とか弁当とか」
「え?トロルがお弁当を隠すんですか?」
そういったニーナの表情は驚きと笑顔でいっぱいになっていた。車内の空気がさらにほぐれてゆくようだ。
三つ目の悪戯者にひとしきり笑い合った後、啓介は静かにペールのその後の話を促した。
「それで、ペールはその怪物の娘と結婚寸前までいきます。結婚のための条件が三つ出されるんですが・・・。魔の国の飲み物を飲んだり尻尾をつけたりです。そのうちの三つ目の条件が目玉を引っ掻き、傷をつけることというものでした。それに驚いたペールは結局逃げ出します」
「また逃げ出したんだ」
「ええ。その時はすんでのところで教会の鐘が鳴り、トロルが消え去ったことでペールは命拾いをします」
「神のご加護あれ・・・か」
「ペールは村人からも追われる身だったので、小さな小屋を建ててそこに隠れます。そこへソールヴェイがやって来て、ペールは彼女に対する本当の自分の気持ちに気がつきます。でも赤ん坊を抱いた魔王の娘が現れます。その赤ん坊はペールの子供で・・・」
「えええ?」
「ソールヴェイと結婚するなら毎日でも邪魔をしにくると宣言します。結局、ペールは『罪の無い者』、つまりソールヴェイがそれによって苦しむことに気づき、そこであえて回り道をするために旅に出てしまいます」
「回り道?」
心に引っかかった小さな疑問を引きずって話は続いた。
その直後の母親の死、異国の先々で大きな財産や名誉を手にしたかと思えば失い、また手にしたかと思えば失うことを繰り返した放浪の人生。結局、ペールは無一文の老人になって見覚えのある小屋へたどり着いたのだという。
「ペールはその小屋でソールヴェイが歌を歌いながら自分を待ち続けていたことを知ります。ここが先ほど聴いた曲の部分です」
「うーん・・・」
「ペールはようやっと自分の人生を後悔し、そこから逃げ出します」
「え?会わなかったの?」
「ええ、この時は」
自業自得・・・。
かつて誰かに投げつけた言葉が返って来た。
「その後、ペールの前には死神の使いであるというボタン職人が現れます」
「ボタン職人?死神とどう関係あるの?」
「天国に行けるような大善人でもなく、地獄に行かねばならないような大悪人でもない平凡な者はボタンにされてしまうという迷信から来ています」
「へえ。だったらこの世の中はボタンで溢れかえるんじゃない?」
「多分そうでしょうね」
答えに柔らかい笑い声が絡んだ。啓介はその笑みを受け止めながら「平凡」の中身に思いを巡らした。
平凡か・・・。
優しい響きなのかもしれなかった。
「ペールはボタンにされたくなかった、つまり、これは私が思うんですが、『おのれ自ら』に徹して生きてきたと証明したかったので、他の誰かに自分の人生の意味を問いかけます。最初は例のトロルの国の元王に出会いました。そこで元王はペールがトロル的満足に身を任せて生きてきたと喝破します」
「おのれ自ら?トロル的満足?」
「ええ。作品中、イプセンは何度もペールに『おのれ自身であること』と言わしめています。世界中を彷徨い、名誉や富を手にしても、おのれ自身に満足する生き方はトロル的として否定されています。『おのれ自身であること』はその対極にある生き方で、安易に満足しない、自分自身を問い続ける生き方みたいなものだと思います」
「えらく哲学的になってきたね」
「ええ。そういう時代状況だったのかもしれません」
夕暮れの薄闇をかき分けて泳ぐボルボ440。続く沈黙の中で二人はそれぞれに「おのれ自身」の中身に思いを巡らせていた。ニーナの心の内にあるであろう感情の糸の絡まり。自分の中に脈打つ淀んだ風景。自身は隣にいる人と同じものを携え合えているのだろうか。見つめているパースペクティブは交わるのだろうか。啓介は答えの出ない問いに身震いするしかなかった。
「それで、最後に自分の人生の証明書を手にするべくペールがたどり着いたのはソールヴェイの元でした。ペールは最後に彼の『おのれ自身』がどこにあるのかを尋ねます。ソールヴェイはそれに対して『私の信仰の中、希望の中、愛の中』と答え、彼女の歌う子守唄に抱かれてペールは静かに息を引き取ります」
「結局、ペールはボタンにされるの?」
「それについては記述されていませんが、恐らくそうでしょう。でも、それ自体を悪いことだとは意識させないものを私は感じます」
話を聞き終えた啓介はしばらく言葉を返せないでいた。ペールは一生涯をかけて何を得ようとしていたのだろうか。ペールが手に入れようと回り道をした先々には結局、本当のものではない『おのれ自身』しか待っていなかった。啓介の意識はいつの間にか自分の姿をペールに重ね合わせていた。重なって黒く滲んだ己の分身が喉元をじりじりと締め付ける。その負荷を振り払うように、啓介は一つの問いを絞り出した。
「で、この作品はどうだった?良かった?」
「うーん。良かったかどうかと言われれば・・・」
「例えば、その文学的価値ってどうなんだろう?」
走行中の車の単調なリズムを断ち切るように古ぼけた言葉が飛び出した。
「文学的価値?」
それは文学部に在籍したものなら誰もが一度は口にする言葉だったかもしれない。ただし、啓介はそれを中身のある実体として口にしたことはなかった。
「なんというか、一般的なものじゃなくてもいいんだけど」
「そうですね。この作品が書かれた時代は近代への移行期という時期で、例えば『おのれ自身であれ』というのはイプセン自身が当時実際に問い続けていた命題なのかもしれません。『人形の家』で主人公ノラが最後に家を飛び出したのも『私自身に対する義務』を果たすためであり、そのために可愛い妻・良き母親という役割を放棄しなければならなかったことと同じ線上にあるんじゃないかと私は思います。ペールが身近にあった本物の何かに気づいて、そのために人生を捧げていたとすれば、たとえ最後にボタンにされようとも彼は安息が得られたんじゃないか、そんな一つの回答が隠されているように私は感じました」
ニーナは最後のフレーズを強い調子で結んだ。その強さの分の何かが、今、啓介の心の底に錘となって沈んだ。
「十九世紀後半の時代状況の中で目覚め始めた社会的変化を文学作品、特に『ペール・ギュント』の中で劇詩という特殊な技法で表現したことは文学者イプセンの功績だと思います」
過不足のない言葉でその語りは締められた。後には、『おのれ自身であること』という柔らかい声に包まれた命題だけが行き場を失い、啓介の視界の先に横たわった。ニーナも『おのれ自身』を探して彷徨っているのだろうか。彼女の父親は?啓介自身はどこへ向かっているのか。
昼と夜の間でイプセンの残した言葉が弱々しいながらも、ニーナへと至る道を灯しているように啓介は一人感じていた。
後記
『ソールヴェイの歌う風(七)』、最後までお読みくださり、ありがとうございます。
この小説は私個人が実際にノルウェーを一人旅した時の記憶に基づき書き下ろした創作小説です。滞在した当時の状況をできるだけ忠実に再現したつもりですが、登場人物に関しては実在の人物とは一切関わりがございません。
作品中、文学表現の可能性を試すべく、画像や音楽を貼付しております。筆者が抱いた心象風景をできるだけ読者と共有できればとの考えに基づく一つの試みです。併せてご堪能いただけると幸いです。
今回の部分は執筆にあたって、個人的に最も勉強した部分です。ノルウェーの文化・芸術について色々と資料を漁りました。ノルウェー語がわかればもっと違った書き方になったかもしれない部分ですが、それは筆者個人の能力の限界を超えていることでもあり諦めるしかありません。あくまでノルウェーに関するど素人の感想と思ってお見逃しください。
最後に、作中貼付した画像は以下の無料画像サイトからお借りしました。スペースの都合上、一つ一つの作品に関する詳細を記すことができません。この場をお借りしてお詫びするとともに、素晴らしい作品を無料で提供されてくださるアーティストの方々に対し、深く感謝いたします。
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