ソールヴェイの歌う風 〜ノルウェーの小さな物語4〜
四
中央駅を背に、啓介はぼんやりと駅前広場の人の流れを眺めていた。腕時計が午前十時を指そうとしていている。今日のオスロは前日にも劣らぬ陽気となった。小さな舞台で夏が精一杯に踊りを舞っている、そんな凝縮された時間が穏やかに流れていた。
ノルウェーに限らず、パリより北にあるヨーロッパの街では夏であれ晴天が続くのは運がいいことだ。それはただ単純に素晴らしいことが起こりそうな予感を人々にもたらす。啓介の体も何かに満たされていた。こんな感覚に神経をくすぐられるのはもはや思い出せないぐらい遠い昔のことのような気がした。最後にこうした気分を味わったのはいつだったか・・・。
突然、視界の右手から人影が舞い込んだ。
"God morgen!"
柔らかに響いた挨拶の先には一人の女性がデイパックを肩にかけて立っていた。昨日、民俗博物館でスターヴ教会の解説をしてくれた女性である。名前をニーナ・マーセンという。オスロ大学の学生だ。
「グモーン!」
啓介はとっさに今朝ホテルのレストランで仕入れたばかりのノルウェー語を口にしていた。それは耳に聞こえたままのカタカナだった。
目の前に立ったニーナは上背のある啓介よりもやや背が低く、目線は少し見下ろすような格好になる。白いブラウスにくるぶしまで届くような黒のロングスカートという伝統衣装に包まれていた昨日の姿は今、ジーンズにスニーカー、肩には赤いトレーナーを引っ掛け、袖を上げた紺のギンガムチェックのシャツに身を包んだ現代風女性になっていた。まるでこれからハイキングに行くかのような女子学生のいでたちに、啓介の頬はつい緩んだ。
そのノルウェー国旗の配色に包まれたニーナ自身はといえば、誰もが思い描く「北欧の人々」のような金髪碧眼ではなかった。大きな瞳は栗色で、髪は日光の下で赤味を薄く弾くブラウンといった感じだった。いたずらっぽい好奇心が垣間見える眼差しに、淡い日差しが溶けるポニーテール。昨日しとやかに結われていたそれは今、「気ままに」という感じで緩く束ねられている。少し陰った額に知的な雰囲気が漂い、引き締まった口元は意志の強さを感じさせた。
美しい人だ。
啓介は昨日なんとなく胸の内に感じていた高揚感の正体を理解し始めていた。
目の前から向けられた固まった視線にニーナが小首を傾げた。
「あ、ごめん。なんだか昨日と別人みたいになったから驚いた」
微笑みとともに尋ね返される。
「変ですか?」
「うんうん、全然!」
すごく綺麗・・・。
それはまだ胸の内でしか声にならなかった。
これから二人でヘッダール教会に行くことになっていた。
昨日、民俗博物館でスターヴ教会の説明を受け、その後、改めて館内を案内してもらった帰り際、ヘッダール教会訪問について相談した時に案内を申し出てくれたのだ。啓介は考古学の知識はないが館内で聞かせてくれたいろいろな説明から察するに、ニーナの考古学の知識、とりわけノルウェーの民俗学についての知見の豊かさと深さは確かなものだ。そんな専門家がふらりと立ち寄った一旅行者のガイドを申し出てくれたのだ。無駄にする手はない。それに現地の人による確実な道案内は頼もしくもある。何より、オスロから車で往復五時間ほどの時間を彼女と共有できることに、啓介は身勝手ないい予感を期待したくもあった。
中央駅近くから出発したボルボ440はオスロのビジネス街といった様相の近代的ビル群の間を縫って走る。ニーナの的確な指示もあって、午前中の街中ドライブはさしたる混雑もなく快適そのものだ。時計の逆回りをなぞるように走り続けると、右手に見えた緩い上り坂の先に立派な建造物が見えた。王宮だ。
ニーナはそこで現在のノルウェー王室についても解説してくれた。決して大きくはないオスロという街、かつてデンマーク王やスウェーデン王を戴きクリスチャニアと呼ばれていたこのスカンジナビアの小国の首都は今、ノルウェーという国の持つ伝統と権威、現代生活と芸術・歴史の全てを抱え込んで息づいていた。
ニーナの柔らかい声に招き寄せられるように、啓介はこの国への好奇心が膨らんでゆくのを感じた。
トンネルに入ったボルボは、そこで自動車専用高速道に合流した。車の流れが一気に速くなった。幸いにもノルウェーのドライバーはのんびり車を走らせるようで、すんなりと流れに乗ることができた。
やがて薄暗い闇を抜けしばらく進むと、いつの間にか海岸線沿いを走っていた。車窓からたくさんのヨットが帆を休めているのが見える。静かに波を揺らす水面が朝の北の太陽を爆ぜている。その向こうには針葉樹のなだらかな緑の壁。雲を散らしてそれを覆う空がとてつもなく広く感じられる。
ニーナの了解を得て、啓介は少し窓を開けた。消えかかった都市の空気に混じって潮の香りが車内に流れ込んできた。反対側の窓も開けられたようで、車内に海の存在が少し膨らんだように感じた。視界の端でニーナが髪をほどき、束ね直すような仕草をしている。ちらりと視線を向けた瞬間、解いた茶色の髪が入り込む風にあおられて、ふわりと広がった。
啓介の心臓が一瞬大きく弾んだ。
オスロの市街地を出たせいか、ニーナの解説もしばらく小休止に入っている。相変わらず目の前には空が圧倒的な存在感を誇示する風景が続いていた。道が上下左右に角度をつけて迫ってくることだけが平坦なオランダとの違いを感じさせた。
「あ、そうだ」
「はい?」
「昼ごはんなんだけど、どこか途中で食べられるような場所があったらレストランにでも入ろうと思うんだけど。もちろん僕がご馳走するということで。どこか立ち寄れる町とかあるかな?」
時間的には昼食時をまたぐことになる行程なので、あらかじめどこかで昼食を共にすることを啓介は考えていた。
「あの。お弁当作ってきました」
「ええ?」
予想外の展開に啓介の声が裏返った。その反応が逆に同乗者を驚かせてしまう。
「あ、ダメでした?」
おずおずとそう言ったニーナはカーキ色のデイパックを抱き寄せた。
「いやいや。お弁当作ってきてくれるなんて想像もしていなかったから・・・。なんだか悪いな」
「でも、天気もいいし、途中、景色が綺麗なところもあるし。どこかでピクニックって良くないですか?」
「それ、最高だよ」
胸の内でいい予感が扉をノックした。
二人の乗った車は淡く澄み渡る日差しの中、片側三車線の高速道路を快調に走る。道路はよく整備が行き届いていた。人口五百万人程度の国にしては驚くようなインフラだ。イメージとは合わないが、これが北欧の産油国の底力なのだろうか。
海岸線から離れた道路は森の気配を左右に従え、先へ先へとゆるく伸びる。時折、むき出しの岩肌が運転者を脅しつけるように迫り、自然の意思の存在を強く印象付ける。そしてそんな風景の間に隠れるように、現代社会の影と人々の生活の気配が紛れ込んでいた。
「君はオスロの人なの?」
何気なく口から溢れたその小さな問いかけがお互いの事情について踏み込むきっかけになった。啓介とニーナはしばらく自らの過去と生い立ちを語り合った。
彼女は現在オスロ大学で考古学を学ぶ大学三年生で、そのために故郷を離れオスロで一人暮らしをしているとのことだ。専門はノルウェー考古学。夏休み中は民俗博物館でのアルバイトもあってほとんど実家には帰らず、昨日、啓介の前で披露したようなガイド役をしているのだそうだ。家族は母親と高校生の弟が一人で、ハウゲスンという遠方の街に暮らしているらしい。ニーナも大学入学以前はそこで一緒に暮らしていたのだという。
彼女の父親に関しては、考古学を志すきっかけになったという点以外はその語りに現れなかった。故郷での家族の暮らしぶりについても何も深く触れられることはなかった。話の道筋はそこを避けているようでもあった。啓介には敢えて本人が触れなかった事情に踏み込む勇気はない。対話をしている相手に関心があるならば尋ねるのが世界で一般的な行動様式なのかもしれないが、啓介の内にある日本式の気配り、いやそれ以上に自身で抱え込んでいる暗い部分がそれを制止した。
一方で、啓介自身が語る過去もモノクロ写真の中の色彩を想像で語るかのように言葉が上滑りしていた。親兄弟の顔を思い浮かべる時に滲み出る赤い激情や青い冷徹さといった感情の色彩を生身のまま載せて話すことはできなかった。啓介にそれを強いるには二人を繋ぐ心の距離がまだ遠すぎた。嘘をついているわけではないが、啓介は自分を語れば語るほど別の何かについて話している気がしていた。親しく打ち解けあっているようなやりとりの裏で、見られまいとする何かを抱えている啓介の意識。
「・・・お母さん、もう離婚しようと思ってるの。・・・」
数十センチの距離で交わす言葉の間に、母親が垣間見せた感情が高い密度の壁を築く。
その壁の向こう側で、ニーナの声の印象や言葉の選び方も昨日と同じではなかった。
後記
『ソールヴェイの歌う風(四)』、最後までお読みくださり、ありがとうございます。
この小説は私個人が実際にノルウェーを一人旅した時の記憶に基づき書き下ろした創作小説です。滞在した当時の状況をできるだけ忠実に再現したつもりですが、登場人物に関しては実在の人物とは一切関わりがございません。
作品中、文学表現の可能性を試すべく、画像や音楽を貼付しております。筆者が抱いた心象風景をできるだけ読者と共有できればとの考えに基づく一つの試みです。特に音楽はノルウェー語の楽曲を中心に、どれも私自身が創作中にBGMとして耳にしてきたものばかりです。素晴らしい曲、日本で知られることのない響きを選び、紹介するのに毎回苦労しますが、その作業も楽しめています。今回選んだ曲はもともと男性が歌っていた曲を女性歌手がカバーしたものです。こちらの方が作中の心象風景に合っているかと思い、選択しました。これまでとは少し趣の違うものとなりましたが、読者の皆様にもお楽しみいただければ幸いです。
最後に、作中貼付した画像は以下の無料画像サイトからお借りしました。スペースの都合上、一つ一つの作品に関する詳細を記すことができません。この場をお借りしてお詫びするとともに、素晴らしい作品を無料で提供されてくださるアーティストの方々に対し、深く感謝いたします。
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