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ソールヴェイの歌う風 〜ノルウェーの小さな物語14〜

十四

沈黙にかかる橋を包み込むように、持ち主不明の光源が無数浮遊していた。一瞬の風が幾度となく、両耳をかすめては消えていった。微かに起こる抑揚のある小さなノイズがリズムとなって優しい音楽を奏でる。その風に歌声をあずけるように歌う女性のシルエットが思い浮かんだ。一生をかけてペールを待ち続けたソールヴェイだと啓介は確信した。その寂し気な声音が今、風に乗り周囲に確かな意志を響かせている。

ニーナがこの数日間に見せてくれた表情が脳裏を駆け巡った。辛い現実を背負いながらも、そのいずれもが彼女の柔らかな声と静かな意志で浄化されていった。

明日はここを、ニーナの元を去ることになる。

ソールヴェイの歌う悲しげなメロディーが心の内にじわりと広がる。

「おのれ自身であること」、精神の徘徊、ソールヴェイの感情、ニーナの葛藤・・・。グリークが紡いだ悲しみと希望の旋律に混じって、この数日間で出会った様々な瞬間が啓介自身を内側から洗い流してゆくようだった。

「ニーナ・・・」

啓介はぐるりとあたりを見回した。夕暮れが去った後の余韻が濃く滲む橋の上。今、啓介は一人きりだった。ひんやりとした寂しさと、消えた涙と、痩せこけた勇気・・・そして何かを愛おしむ気持ちが心で一つになった。

"Nina, Sukida!"

胸の内に混ざり合った感情を自分自身の言葉にし、橋の上から一気に投げ放った。その裸の思いは吹き渡る風に乗って周辺一帯に静かに広がり、降り注いだ。掴み取ったものがそこに見えた。

しばらく自分の発した言葉を確かめるように、心の内をじっと見つめる。数十メートル先の水面には、今しがた通り過ぎた船が描いた逆三角形の波紋が幾重にも重なって漂っていた。突然、左手に人の気配を感じた。驚いて視線を向ける。

そこにいたのはニーナだった。

“Oh my God!!”

少し夕日を背負った眼差しが、啓介の胸に目覚めた真実を温かく包んだ。

「ガソリンを入れに行くって出て行って・・・、車が外に止まったままだったから」

啓介はそれに答えることもできず、ただ黙って柔らかな眼差しを受け止めていた。

「ここにいるんじゃないかなって思った」

「え?」

ニーナは啓介の隣に並んで海面を見下ろした。

「高さは二十九メートル。九階建ての建物ぐらいね」

風の来る先にゆっくりと視線を移し、手すりにもたれかかりながら遠くを眺めるニーナ。その先から、ふっと心を撫でる風が吹き寄せる。無言の横顔は視界を支える遠近法の起点を見つめるというよりも、自身の内にある感情と理性が一点に集まる場所を凝視しているかのようであった。

「父はね、もともとオスロの人なの」

突然、現れるニーナの父親の影に啓介の心はもう怯むことはなかった。それどころか、彼女を成り立たせている一部として向き合いたいと願うほどにその影を重ねていた。

「ハウゲスンという街は最初にノルウェーを統一した人物ハーラル一世が住んでいたところなの。本当に住んでいたのはアヴァルツネスっていう村で、少し南に行ったところにある場所だって言われているんだけど。ハーラル一世の霊廟はこの街の北にあるわ。そこは百年ほど前に発掘調査があって、今はモニュメントが立ってるの。考古学的にはいろんなことがまだ証拠不十分って言われてるんだけど」

ニーナは遠くを見つめたままだ。それは過ぎ去った遠い時間の中で探し物をしているような目つきだった。

「父はそういったこの国の歴史に招かれるようにこの街に流れ着いたんじゃないかなと思う」

今、目の前で語られる父親についての言葉には確固とした響きがあった。善や悪といった価値を前にしても揺らぐことのない強さが語られているものに込められていた。心なしか、ニーナの頬が少し紅潮しているようにも感じられた。自らの過去に傷を残した人物の気配はどこにもなかった。

「そしてこの街で君のお母さんと出会った?」

啓介が物語を引き継いだ。

「そうね」

「そして君とモルテンが生まれた」

「そしてあなたと今ここにいる」

形と質量のある確かな言葉が届けられた。新しいパラグラフが加わり、二つの物語が交わった。その重さの心地よさに動きを奪われた啓介は、ただ黙ってニーナの柔らかい眼差しを抱きしめた。

加えられたものの余韻を味わうかのように、しばらく二人は前途に待ち受けているであろう水平線を眺めた。不思議なことに、黒く染まった風景は日本で家族との間に起こるであろう情景を予感させた。

「啓介」

「何?」

何かを決心したかのように、ニーナは一つ大きく息を吸い込んだ後、啓介に視線を向けると、ゆっくりと尋ねた。啓介は見つめる瞳の奥を覗かれているような感覚を味わった。

「sukidaって日本語なの?」

え?やっぱり聞かれてた!

体中の熱が体を駆け上がって行くのを感じた。頭の中がぼんやりし、風景が、ニーナの姿が一つの塊になって混じり合う。

「ねえ、それ、どういう意味?」

「や、あの、それは・・・」

ただただ取り乱すしかなかった。あまりにも唐突で核心を突いた問いかけに、受け流す答えも見出せなかった。

「あ、あ、挨拶みたいなもの。『ハロー』みたいな感じ。あははは」

正真正銘の意味として伝える勇気がまだ啓介の中にはなかった。今は誤魔化すように回答するしかなかった。しどろもどろの言葉はどう受け止められただろう。

ニーナはその啓介の態度に安心したのか、少し微笑んでから、再び風の来る先へと視線を戻した。今度はしっかり風景の中の一点を見つめている様子だった。

"Keesuke! Jeg elsker deg!"

今度はニーナが叫ぶ。啓介には自分の名前以外の部分は理解できなかった。

「え?何?ノルウェー語?」

ふふっ。振り向きざまに謎かけるような微笑みが返ってきた。

「どういう意味?」

ふふふっ。

微笑みがもう一つ、今度は悪戯っぽい響きで返ってきた。

「えっと・・・。そうね、挨拶みたいなものね。『ハロー』って感じかしら」

少し照れたような面持ちで返された答え。その表情にある瞳が真剣な光で遠くを見つめ直す。啓介はニーナの視線の先に自分の視線を静かに合わせた。三つ目の毛むくじゃらの怪物が満足そうに笑っている姿が見えた気がした。


ふふっ。

啓介の口元からも笑いの雫が落ちた。発せられたノルウェー語の意味はまだ理解できなかったが、ニーナの瞳の輝きにはただ純粋に信じるべき全てのものがあることを啓介の心が理解した。橋の上に吹き渡る風は、今は明るいリズムで歌うように二人の周囲に満ちていた。


「ニーナ、明日、そのノルウェーを最初に統一した人のモニュメント見に行けるかな?」

「もちろん。案内するわ」

十年という時間の重さを知る時間は十分ではなかったが、少し懐かしい弾けるような明るい声が啓介の体の内の隅々に光を届けた。そんな思いを再び手にすることができたことが啓介は嬉しかった。



一年ぶりのノルウェーの夏は、あの日と同じ表情のまま啓介を出迎えた。

キーを回しボルボ 440のエンジン音を静かに車内に満たす。フロントガラスの先をぼんやり見つめながら、啓介は自分の身に起こった変化を回想した。


あの夏の出来事を経た後、程なく外務公務員としての職を辞した。そのことについて、特別な感情はわかなかった。己をかくまってくれていると思っていたものが現実には髪の毛一本ほどの張力を持たぬことに苦笑さえこみ上げた。

啓介は身の回りを整理した後のほとんどの時間を、日本で散り散りになった家族を訪ね歩くことに当てた。良きにつけ悪しきにつけ啓介たち安達家の人々を結びつけていた糸。それを手繰ってゆくことで、自分自身に課した偽りを暴こうとした。啓介と母祥子の精神を蝕んできた血は図らずもその欺瞞性を露わにした直後、あっけなく消え去り、後にはただ平坦な虚空だけが残された。どこまでも遮るものものなく広がる空間。母親の姿はまだ見えない。結局のところ、それが二人の目の前にあるはずの真実だったのだろう。啓介は今になってそう思う。

「俺は認めない!負け犬はお前なんだよ!」

兄啓一郎はそんな言葉で見終わった夢を描き直そうとあがいていた。それは「その後」を生きる最も色濃い言葉であると啓介は認めざるをえなかった。同時に、敗者の立ち位置も、勝者の表彰台も手にしたことのなかった啓介にとっては、それは淀みの上を漂う木の葉ほどに生命力を感じさせない言葉でもあった。熱量だけが生きている証の兄の心情の落ち行く先を啓介は描けずいた。

翠子は・・・。兄弟の中で最もよく安達家の血の意味を理解していた彼女が一番大きな困難に直面しているはずなのだが、そういった理不尽さを手なずける不思議な術を生得しているのもまた翠子なのだ。今は発すべき言葉に迷いがあっても、きっと身軽になって次への助走に入っていくと啓介は信じている。そして飛び立てた後には、自分の元へとひょっこり飛来してくれることも願えるようになった。その時が来れば、始まることのなかった兄と妹の物語が始まる予感があった。

母祥子は?体内に幾重にも巣食う蜘蛛の巣を振り払う決心がようやくついたように見えた。改めて観察してみた母の瞳には啓介が見たことのない力が輝きを見せていた。しばらくは人がいなくなった安達家にとどまるつもりだそうだ。「再建」という気負いは感じられない。そもそも「再建資材」となるようなものは何もなかったのだ。自分自身を取り戻すべきものを知った母親の一歩一歩が確固たる道を作り始めていた。

父喜一郎はどうなのだろう。結果的にはスキャンダルを主導した者のリストからは外れたものの、彼の元に日の当たる場所はもう巡ってこないだろう。啓介は結局、父の居場所を突き止められなかった。祥子もはっきりとは知らないという。知っているがまだ教えられないとも取れた。包囲する虚無に、父は今何を脱ぎ捨てようとしているのか?親子などという世間並みの言葉で言い尽くせない感情がその中身を語ってくれそうな気がしたが、理解する準備は十分だったのかという問いが自身の中に燻っている。その日が来れば氷解するのか否かも不明なままに。


啓介の新しい物語はまだ始まったばかりだった。霧散してしまったものたちの影を追い、己自身の輪郭をなぞり直す試み。道のりは平坦ではない。先に何が待っているかもわからない。動機ははっきりとした姿を見せてはくれない。信仰にも通じるような微熱がただただそうさせるのだと考えている。同時に、そうした行為がやがて自らを縛り付けていた重力を振り解く道へと至ることも本能のように知覚していた。

一方で、8000キロ以上離れた北欧の空の下、ニーナの家族にもリスタートの日々が始まっていた。母アナの心は着実に快復に向かい、少しずつではあるが社会復帰に向けて歩き出している。「アナの向かっている先が単に元いた場所ではないようだ」とのニーナの言葉が理由もなく春の夜風のように優しく啓介の心を撫でた。モルテンは姉が気にかけていた最終試験に合格し、無事進級を果たした。姉妹で直接言葉を交わす機会は今でもあまりないようだが、気がつかないふりをして平和な時間を装ってきた頃に比べると、少ない言葉の一つ一つに確かな重さが感じられるとニーナは告白していた。現在はモルテンは大学で数学を学ぶことを目指して準備中だという。

ニーナ自身はといえば・・・。父親との紐帯を取り戻していた。ただ、今はまだ歴史を専攻する一学生としての接点に過ぎないとのことだ。まだまだ慎重に距離を取りながら、絡み合い、錯綜した感情の糸を解きほぐすでもなく、ただ目の前に横たわるものを踏み越えてゆくことで未来を見定めようとしていた。啓介はそんな彼女の心境を今もって理解しかねている。善悪の基準を超えて、ただ己の理解力の不足だけを感じている。考えてみれば、啓介の周囲には大きな変化があったが、そのどれもが世界を理解する助けになってくれはしないようだ。唯一身につけたものは、それらと向き合う術だけだった。ただ、傾げた傘から見上げた曇り空にはかつてなかった陽の光の予感があった。

そんな啓介もこの秋からオスロで大学院生生活をスタートさせることが決まっていた。これまで体内に溜まってきたものを全て脇に置いて前に進むつもりだった。それがイプセンが描いた『ペール・ギュント』の世界をそのまま辿るような、何かを求めての船出であることを深く自覚している。前途が多難であることも。しかし、もう緑色の視線に背中を突き刺されることはないだろうとの予感だけはあった。周囲の何もかもが去年と、いやそれ以前の全ての時間と同じではなかった。

気持ちを引き締めるように、視線の焦点を絞り直した啓介は静かにシフトレバーに手を置いた。その上にそっと温もりが重なった。掌の柔らかさから無言の決意が伝わってきた。ゆっくりと視線を向ける。瞳と瞳が触れ合った時、ニーナが静かに微笑んだ。リソイ橋の上で二人を包んだ夜風の優しさが思い浮かんだ。

この先、何が待っていようとも、啓介は今手に触れるこの温かさがある限り歩き続けることができると確信した。

遥かな先にあるウルネス教会。見知らぬ先、約束の地への二人の物語が静かに始まった。


(完)


後記

『ソールヴェイの歌う風(十四)』、最後までお読みくださり、ありがとうございます。この物語はこれで完結です。

この小説は私個人が実際にノルウェーを一人旅した時の記憶に基づき書き下ろした創作小説です。滞在した当時の状況をできるだけ忠実に再現したつもりですが、登場人物に関しては実在の人物とは一切関わりがございません。あるいは、自分自身の生き様をどこかで反映したものかもしれませんが、それは筆者自身、確信の持てないところでもあります。

作品中、文学表現の可能性を試すべく、画像や音楽を貼付しております。筆者が抱いた心象風景をできるだけ読者と共有できればとの考えに基づく一つの試みです。併せてご堪能いただけると幸いです。

さて、今回の一曲目はIngebjørg Bratlandさんという方の"Fordi eg elskar deg"という曲です。邦題では『あなたを愛しているから』となるでしょうか。原曲はボブ・ディラン氏の"Make You Feel My Love"ですが、かなり違った雰囲気にアレンジされています。ノルウェー語では多くの方がカヴァーされており、この曲がノルウェーの人々に深く愛されていることをうかがわせます。私もこのノルウェー語版が大好きです。

二曲目はこの物語の最初にも挿入したSiri Nilsenという方の"Alle Snakker Sant"という曲です。邦題だと『誰もが真実を語る』となるでしょうか。私がノルウェー語の楽曲に嵌るきっかけになった曲です。歌の内容からも、最後はこの曲で締めたいと思っていました。ご堪能いただけれ幸いです。

最後に、作中貼付した画像は以下の無料画像サイトからお借りしました。スペースの都合上、一つ一つの作品に関する詳細を記すことができません。この場をお借りしてお詫びするとともに、素晴らしい作品を無料で提供されてくださるアーティストの方々に対し、深く感謝いたします。

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