ソールヴェイの歌う風 〜ノルウェーの小さな物語11〜
十一
啓介は午後いっぱいを、モルテンがショッピング・ストリートと呼んだハラルツガータの散策に費やした。旅行に出てもほとんど写真を撮ることはない。そもそもカメラさえ持っていない。しかし今回、これまでの行程を何ら記録に残してこなかったことに若干の後悔を感じていた。
昨日から続く時間が違った光沢を見せていた。それ以前の硬く濁り固まった記憶の上に、それらは優しく降り積り、接触し、ゆっくりとした化学変化を引き起こしているのを精神のどこかで感じ取っていた。そのあとに姿を表すものが何であるかは不明だ。それでも・・・、心に現れる風景を色や形で描くことはできなくても、精神に刻み込まれようとしているものの質量を掴みたかった。透き通るような衝動が体の中を突き抜けた。
味わったことのない不確かな考え、不遜な企て、抑えきれない欲求に後押しされ、見つけたカメラ店で一眼レフカメラ購入を決意した。選んだのはMinoltaという日本ブランドのカメラだった。啓介はカメラについても無知だったが、数年前に登場し、強いインパクトを残し、なぜか耳に残る「αショック」という言葉の余韻がそれを選択させた。踏み入れた空間が多くの日本製品で満たされていることが新鮮だった。流れ着いた見知らぬ地で、捨て去ったものを突然突きつけられたように感じた。今、啓介は新しいアイテムを手に、相入れない二つの感情の間に立たされていた。ショックに身構える感情とその先を期待する感情だった。
そんな不確かなものを手に、啓介は夢中でファインダー越しの世界を探った。存在さえ知らなかった小さな町で人々が共有する時間に無心に焦点を合わせた。その表層に浮かび上がるものは笑顔であり、敬意であり、気遣いであった。手と手で人が繋がり、言葉が絡み合う空気が満ち溢れていた。明るい夏の日差しがすれ違う人々の間に溶け込んでいた。世界はまっすぐでシンプルで、人々の感情をあるがままに受け入れようと両手を広げてたたずんでいた。奇妙な視線の脅迫はそこにはなかった。
ガラス越しの柔らかい日差しに浮かんだ山積みのパンに視線が誘われる。渦巻き状のパンはヨーロッパのどこかの街で目にしたことがあったかもしれない。頭の中にかすかに息づいている感覚が過去の時間を揺さぶる。啓介の足はそのパン屋の店内へと吸い寄せられた。香ばしい匂いが体全体を包んだ。
明るく清潔感の漂う空間。自由気ままな線を描いて並ぶ様々な形のパンの列に、まだらに濃淡を滲ませた茶色の波が絡む。チョコレートなのか、それとも他の何か見知らぬ味なのか。それはどこか安心感を誘う構図だった。不規則なパターンが知らず知らず、硬くなった胃袋を解きほぐしてゆく。啓介は店内の一角を占める喫茶コーナーで昼食を取ることにした。
運ばれてくるコーヒーとパンを待ちながら、手に入れたばかりの小さな本に視線を通した。それは衝動買いをしたノルウェー語の教科書だった。並んでいるモノトーンの文字列を不思議な感覚で眺める自分があった。解説は英語なのだが、そこで主役となるアルファベットの連なりは音声とのつながりを欠いている。触れられるものと触れられないものとの見えない壁があった。個々の部分が既知であっても、それが寄り集まると異なった顔を見せる。言語は実に曖昧な姿で世界を支えている。
啓介は理解できるはずのない水の中を裸の気分で泳いだ。あてもなく流れるままに身を任せた。アルファベット一つ一つと記号に囲まれた世界が今、皮膚の微細な穴を通して体に染み込んでくる。
やがて注文を取りに中年女性のウェイトレスがやってきた。英語でオーダーをする。意思は通う。注文を受けた後、奥へと消えてゆく女性。背中越しの言葉は啓介の意識に響くことはなかった。
突然、大きな不安が襲ってきた。いや、それは正確には不安といったような色合いのはっきりとした感情ではなかった。威嚇するでもなく、明暗も深浅も定かではないどこか足場のない感覚だった。その中心で、ただ己の存在が希薄になってゆく。恐怖に煽られることのない、だがしかし、消えてゆく感覚に追い立てられた静かなる焦燥感。カメラという記録する術を手にした今、己自身が希薄化する現実によって理性を捻り上げられる。
俺は沈んで、消えてゆく。
まるで元から何も存在しなかったような自分自身の実体を見た。経験したことのない視線が己自身を見つめているのを感じた。それはあの緑の視線に通じるのなのだろうか。
啓介は形容する言葉の見つからない虚無感から逃れようと、無意識のうちに右ポケットをまさぐっていた。何か自分自身を確かにしてくれるものを探し求めた。突然、指先に生温くなった硬い金属を感じた。意識したことのない感覚だった。追い立てられるようにそれにしがみつく。つい一週間ほど前に日本から来た同僚が土産に置いていったキーホルダーだった。京都の有名寺院のお守りをも兼ねた和風な鈴だ。啓介自身にとり、何の意味も持たなかった存在。無意味なかけらが何とか周囲を取り繕った。
緩んだ感覚に一息ついた時、ランチが運ばれてきた。
'Takk!'
実にふんわりと、まるでその時とその場所をあらかじめ予約されていたかのような装いでその言葉は放たれた。何ものをも形を変えることなく、跳躍を必要ともしないままに意識が交流した。虚無感も焦燥感も、全てがそこへの吸収されてゆく。口に広がるシナモンの味。異国が語りかける現実だった。
気がつけば啓介の自我は過去を探っていた。京都・・・。中学生の時の修学旅行と職場からの研修で訪れた場所。多くの人々を魅了する古都だが、啓介にとって決して深い感慨のある場所ではなかった。二度の訪問の跡はぺらぺらに平らなものとして記憶に張り付いていた。ただ感性が疲弊していく時間の中で忘れ去られていた。啓介はまじまじと見つめ直す。起伏のない自分の在りし日の姿を。
その時、手に触れる物体が自分自身になった。名も知らぬ第三国の片隅で大量生産されたに違いないにもかかわらず、人を魅了する魔法がかけられたもの。まだ真新しいそれは、まだ本物ではないがキラキラした光を反射している。
啓介はキーホルダーの鈴を鍵束から外した。自宅や職場、自家用車、自転車や郵便受けまで・・・。自分を繋いでいた様々なものから、本源的なものが切り離された。それをそっとテーブルに置いた。濃いめのコーヒーが思考を惑わす。やがて全てを食べ終え、飲み終え、支払いを済ませ、啓介は何食わぬ風で店を出た。背後に人の気配を探る。誰も追ってこない。自分自身を残せた充実感に胸が満たされてゆく。鈴はやがて音もなく破裂し、自らの存在をこの町に落とすだろう。余韻のように広がり、ゆっくりと降り積り、この土地の光と空気とに一体化するのだ。その音が響くたびに啓介自身を語ってくれることだろう。
その後、ぶらぶらと、カメラが絞り出す機械音を手に街を歩き回った後、病院駐車場に止めたままにしてあるボルボ440へと向かった。太陽はまだまだ高いところにあるが、日差しの色合いはそろそろ夕暮れの下ごしらえをしているといった風だった。
車のキーを取り出しドアに差し込もうとした時、メモ書きのようなものがワイパーに挟んであるのに気がついた。駐車違反を告げる公的書類のような感じのものには見えない。不審に思いながらそれを手にする。
「母の見舞いに来ています。もしよかったら病室まで来てくれませんか。ニーナ」
メモはそう告げていた。
ニーナがこの中にいる?
そう思いながら建物を見上げた時、啓介の胸の内にあった扉を何かがそっとノックした。その柔らかく響いた音は暖かな風を届ける。薄暗い扉のこちら側に柔らかい灯(ともしび)が染み入り、風と絡み合って手を差し伸べる。啓介は今、その暖かさに手招きされるにように、ニーナが待つであろう病室へと向かった。
踏み出す足の一歩一歩さえ焦ったく感じられるのはいつ以来だろう。実際、そんな過去の瞬間が自分にあったのだろうか。不思議な感覚のありかを心の中に探しながら、ひたすら指定された場所を目指す啓介。病院特有の刺激臭に意識が包まれ、記憶の鎧を剥がしてゆく。やがて、すれ違う人の気配さえ捉えることをやめたむき出しの意識に色あせたシーンが忍び込んで来た。
応接室に設えられたローテーブルを挟んで兄啓一郎に迎えられた。二人きりで座るその場所は今、生身の二つの個体を飲み込む巨大な血の精神に支配されていた。その昔、高位の大名から贈られたという銘品や華々しい業績を残した先祖の遺影、時の重さを感じさせる調度品の数々がさながら判事のように重々しい視線で周囲を取り囲んでいる。何人もの名士が腰を落ち着けたであろう深いソファに軽く体重を預ける啓介。尻に伝わるのは凝縮された社会の断面だ。居心地の悪さが背中全体にせり上がってくる。
これから審判が始まるのだ。啓介を弁護する者は不在だった。
兄の鋭い眼光が啓介を捉える。怒りで硬化した視線が精神に襲いかかる。不思議なことに、心のうちに恐怖の感情はなかった。心象風景に浮かぶ水面は、ひとひらのさざ波さえ生じないほど静かに澄み渡っていた。
思えば、啓介は幼い頃から兄の視線をどこかで恐れていた気がする。その熱に恐怖していた。決して交わることのないようずっと避けてきた。何かを諦めさせる威圧感をそこに見ていた。それは禁忌を象徴する視線だった。
「負け犬なんだよ、お前は」
閃光とともに鋭い鞭が振り下ろされる。啓介の精神が一瞬のおののきに身をかがめる。しかしそれが体に直撃しようとした瞬間、するりと自ら衝突を回避するように脇へ滑り落ちた。これまでになかったような光景だった。
「我が家の恥だな。出来損ないが!」
いくつかの言葉、氷の鋼をまとい、さまよう者の精神を屠る勝者の凱歌に湧く第二撃目。高らかに怒りの炎が飛び散る。しかしやはりその攻撃も軌道を外れて消えていった。
罵倒の言葉はその後も尽きることはなかったが、それらはみな本来の役割を果たせなかった。そんな光景を目の当たりにする啓一郎の顔は次第に歪みを帯びていった。瞳に青白い火影が揺れている。それは兄の眼に映る弟の心境を表していた。質量さえ伴うその微光が兄の視神経にめり込んでゆく。眼球が破れ、濁った緑色の情念が溢れ出す。
「所詮、お前はこの家に必要のない人間だ。今すぐここから出て行け!」
最大限の侮蔑を込めた裁断が下った。啓介は終始言葉を発せず、最後にただ沈黙の意思だけを返した。啓介にとって唯一用いることができるしなやかな反撃だった。
「・・・・・」
啓一郎は身動き一つできないでいた。弟から投げられた沈黙に、手足を掴まれ動きを封じられたようだった。兄のこめかみに見えない汗の雫が流れ落ちた。戸惑う兄を一人残し、応接室と決別する啓介。背中に届いたのは兄の人生を記録した啓一郎の聖書の文言だった。そこに記された呪文が啓介の記憶から色を奪っていった。
病室に入ると、三人部屋の一番奥にベッドの上で上半身を起こして横になる夫人と、その傍らで話すニーナの姿が目に入った。啓介に気づいた栗色の瞳が笑顔の手招きをする。ベッドに歩み寄る啓介を待つもう一つの表情には少しの警戒と懺悔、感謝と歓迎の全てが詰まっているようだった。
「彼が啓介」
「こちらは母です」
英語で橋渡しをされた。
「初めまして、アナです」
「初めまして、啓介です」
母親と啓介が英語で挨拶を交わす。アナと名乗ったその女性は頭の中で描けるような「患者」とはどこか違っていた。手入れが疎かになった娘のものとは色合いの違う金色の髪は無造作に頭部を覆っているといった感じで、やつれた印象を見る者に与えるのだが、彼女の体を包むのは支給品のようなパジャマではなく、衣装ケースから出したばかりのようなスポーツウェアの上下だった。見ようによっては、スポーツジムで汗を流して帰ってきた直後のように見えた。それぐらいに疲労の気配が表情には浮かんでいるのだが、他方で、行き交う道筋が全て断たれてしまった後に現れる干からびた喪失感の気配はなかった。そんな光と影を前に、啓介は何かに震えている青い瞳の中心を探った。一瞬、かつて自分自身が経験した凍えた感情を垣間見たのだが、その感覚は彼女の言葉で吹き払われた。
「せっかく旅行に来たのに、ごめんなさい。遠いところからニーナを送ってくれてありがとう。私のせいね。本当にごめんなさい」
アナは二度謝罪を述べ、そこに感謝を重ねた。湿り気を失ったようなその声音には、今回の二人のハウゲスン来訪に責任を負う者の苦渋の響きが混じっていた。本来無関係な第三者を巻き込んでしまった者のねじれた苦悩がそこに潜んでいた。しかしそのかしいだ波に触れた時、啓介は逆にアナへと至る光を感じ取った。
「いいえ。彼女と一緒のドライブは楽しかったので大丈夫です。途中の景色も幻想的で堪能できました」
心の深層に眠っていた原石のかけらのような回答だった。そんな小さなものを見つけ出し、言葉にできたことに啓介自身が驚いた。それを聞いたニーナは笑顔を添え、ようやっと母親の表情から緊張の影が溶け去り、安堵の光が差した。それを合図として三人の間に他愛のない言葉の交換が始まった。病室には昨日自殺未遂を経験した家族の会話とは思えない張りのある声と笑顔が溢れた。窓から春のような午後の柔らかい日差しが差し込んでいた。
そんな和やかな雰囲気の裏でしかし、啓介は目の前の光景を別の冷静な視線で眺めている。罪のない言葉の裏に誰かの影を避けようとする暗黙の意図が潜んでいたことを感じ始めていた。それが意識されたものか、無意識のものかはわからなかった。ただ、かつて排除し、排除された者として、啓介はその気配を敏感に嗅ぎ取っていた。
開きかけた胸の扉の隙間から、ムンク美術館以来ついて回る視線がこちら側の闇を窺っている。
緑の瞳の恫喝に怯えながら啓介が脳裏に思い描いたもの。それは母娘の平和な笑顔を繋いでいるものが夫・父親という欠落したピースであるという事実だった。そしてたとえ一片であれ、渇望されたピースを欠くパズルは脆く崩れやすいものだという現実であった。そんな危うさに躊躇なく同調し、加担している自身の意識もまた同様に脆く、狡いものであることを啓介は確信するのだった。
氷の上を氷片が滑ってゆく。そんな音のない時間が過ぎていった。
「病室まで来てくれてありがとう」
運転席で待っていたのは感謝の言葉だった。
「いいえ、どういたしまして」
啓介はニーナの思いつめたような声を軽い笑顔でほぐした。
「でも、お母さん、すごく元気そうだね。よかった」
「ええ。もともと飲んだ薬の量も大したものじゃなかったし・・・。お医者さんによると、自殺したいという気持ちよりもしたくないっていう気持ちの方がまだ強いみたいなの」
「自殺願望は本心からじゃない・・・ということか」
「ええ」
「それはよかったことなんじゃない?」
「ええ、多分」
今回の母親アナの行動を軽く扱おうとしたのではない。本気ではなかったとしても、人が自らの命を絶とうと考えるほどに心に深い闇を抱えてしまっていることは重く受け止めるべきだ。ニーナもそれはわかっているに違いない。しかしそれと深いところで繋がるもう一つの糸にも二人は気づいていたはずであることを、車内に張り詰めた空気が感じさせていた。ただ、それを口にはできなかった。口にすれば、それが直ちに現実の質量を得てニーナの両肩にのしかかってくることがわかっていた。さらに言うなら、それは今のニーナの細い肩では支えきれないものになるはずであることを二人ともが理解していた。
「でも・・・」
「ん?でも?」
「啓介のことを話すときの母の顔はちょっと今までと違うような気もするの」
「違う?」
「ええ。なんていうか、本当に興味を持って話をしている感じがする」
「本当に興味?」
「母は父がいなくなってから、いろんなことに興味を失ったみたいで・・・。趣味だった絵もやらなくなったし、家族で出かけることもなくなったし。友達づきあいも少なくなっていったの。私たちの教育にも無関心になったし・・・。私たちとの会話自体が・・・なんと言ったらいいのか・・・」
昨夜、モルテンを前にして聞かされたものとは少し違った家族の姿がそこにあった。啓介はそのこともまた事実として受け止めるしかなかった。彼女の母親アナは夫の蒸発と共に生きながらえながらも生きることを諦めたのではないか。そして形は違えど、啓介自身の時間軸がどこかアナの現在に交わるような気がした。
また緑色の視線が見つめている。今、啓介はその視線を真正面から受け止めようとした。両足で踏ん張ろうとした。
「それなのに、今回はなんだかちょっと前と変わったようなところがある」
「そうなんだ。でも、久しぶりに君に会ったからじゃない?サプライズで」
「それもあるとは思うんだけど・・・。父がいなくなってから、あんなに溌剌と会話をしたのは久しぶり」
「へえ。そんなに暗かったの?」
「暗いというか・・・。まあ、元気がなかった」
そう言って、少しの間を置くニーナ。
「今にして気づいたんだけど・・・」
支えを失った人間のさまよう姿が啓介の脳裏で影を揺らした。
「あなたのこと、本当に知りたいと思っているみたい」
「え?僕のことを知りたい?興味があるの?どうして」
「んー。うまく言えないんだけど・・・」
しばしの沈黙が割り込んできた後、微笑みとともに語られた。
「私たちの家族の中に新しい訪問者が来たからじゃないかな」
「訪問者?」
「そう」
フロントガラス越しに見えない景色を追うようにニーナは続ける。
「これまでは父がいなくなって、私が家を出て・・・。その間に母の両親も亡くなったし・・・。引き算ばっかりだった」
「引き算?」
「ええ。でも今は足し算」
「ふーん。足し算か」
「このまま良い方向に進んで欲しい」
「そうだね。たとえプラス0.1でもその足し算に貢献できると嬉しいよ」
「0.1なわけないじゃない!もっと大きな数字よ、絶対に!」
そう口にしながら身をよじるニーナ。語気の重さとは裏腹に、煽られた車内の空気が優しく胸の内を揺らした。
「じゃあ、掛け算ならどうだろう?」
「掛け算はあまり嬉しくないわね」
「どうして?答えが小さくなるから?」
「いいえ。あなたは1.0より小さくないわ。ただ、単純に計算が複雑そうじゃない?」
啓介は深いところにあるものを読み取ろうとする視線を傍で感じた。
「あはは、そうだね」
そうだ。俺はきっと整数みたいな滑らかな数字じゃない。割り切れない部分を抱えた分数、いや円周率のようなものかもしれない。
乾いた思考の上を、小さな言葉が行き交う。みな一様に滑るような軌跡を重ねる。その先には真っ直ぐに伸びる小径が浮かんでいた。啓介は自分の存在が見知らぬ家族に投げかけた光の色を記憶に刻みながら、ニーナの心に浮かび上がった己という数字ができるだけ大きなものになることを願った。
車は緩く曲がりながらリソイ橋への助走に入っている。空へ駆け上がる感覚が啓介のこわばった気持ちをほぐしてゆく。精神に張り付いていた硬い鉛色の鱗が透明の羽毛に変わるような心地。特別な存在と並んで太陽に迎えられ、空へと向かう道のりが新しい何かを予感させる。やがて二人はゆっくりと眼前に広がる碧に抱かれた。
「あ、そうそう」
弾んだように切り出したのはニーナだった。
「モルテンと何かあったの?」
「モルテンと?」
「ええ。今日、病院から帰ってからずっと真面目に勉強しているみたいなの」
「へえ、そうなんだ。いいことじゃない?」
「ええ。でも、今朝、ちょっと言い争いをしたんだけど、病院から帰ってきてから急に人が変わったみたいで・・・。で、何かあった?」
「別に。ちょっと一緒にコーヒー飲んだだけだよ」
「二人っきりで?」
不思議な光景を思い浮かべる表情に戸惑った。
「え?変かな?」
「いいえ、変とかどうかっていうんじゃないの。ただ・・・」
「ただ・・・?あ、そもそも僕は数学嫌いだったから数学の勉強のアドバイスとかは無理」
「そう。わかったわ。で、何を話したの?」
「他愛のないことだよ。この橋が高さ何メートルなのか、とか」
「そんな話したの?」
時計が逆回転するのを目撃したような驚き方だった。
「うん。やっぱり・・・変かな?」
「さあ・・・」
「で、この橋の高さ、知ってる?」
「え?知らないわ」
「あははは。やっぱりね」
車は少し心残りを引きずったまま橋を渡り終えた。
「当たり前のことで知らないことは多いけど、大事なことなのに気づいてないこともいっぱいあるんじゃないかなんて、最近そんな風に思うことがあるんだ。もったいないことだけど」
自分に言い聞かせた。そんな独り言の隣には、真剣にある一点を見つめる無言の横顔があった。
「ところでさ。近くにカルモイっていう綺麗なビーチがあるの?」
「え?」
ニーナのこちらをうかがう顔に一瞬影が差した。その影が周囲に弾んでいた無垢な光を遮った。
「いや、そんな風に聞いたから」
「誰から?」
「街の人から」
モルテンから聞いたことは伏せた。ニーナの表情を覆った影がそれを思いとどまらせた。彼は「昔、家族でよく行った」と話していた。そこには父親が含まれているかもしれない。いや、恐らくそうだろう。であれば、そこはニーナの家族にとっては父親が消えて以来忌避されていた場所かもしれない。だとしたら・・・。
啓介はニーナを試していた。父親のいた彼女の過去に足を踏み入れてみたい。そんな大胆な企てが胸に芽生えていた。それが全くのエゴであることはわかっていたが、衝動を抑えられなかった。そうすることで自分の居場所を確認したい。正当性のない衝動に見据えられ、身動きが取れなくなる。啓介の意思は前へ踏み出すことも、後へ引く勇気も見出せないまま立ち尽くすしかなかった。ジェラシー・・・。形の定まらない影に感情を鷲掴みにされ、瞳は意思につながる焦点を欠いていた。
彼は流れ着いた場所の名もなき住人たちの背後に身を伏せた。日差しの重さに押しつぶされそうになりながら・・・。
「一緒に行ってみる?」
「え?」
ニーナからの予期せぬ提案に小さな驚きがこぼれた。
「車で行くと一時間もかからない距離だけど・・・」
「初めて行く僕なら一時間以上かかるね」
二人は声を絡ませて笑い合った。互いに何かを取り繕うような、どこかぎこちなさの漂う笑顔と言葉の交換だった。夏が突然仮面を脱ぎ捨て、残酷な素顔に薄ら笑いを浮かべていた。
ほどなく予定通りの位置に帰り着いた赤いボルボが、行き場の失った乾いた言葉の後にとりあえずのピリオドを置いた。
後記
『ソールヴェイの歌う風(十一)』、最後までお読みくださり、ありがとうございます。
この小説は私個人が実際にノルウェーを一人旅した時の記憶に基づき書き下ろした創作小説です。滞在した当時の状況をできるだけ忠実に再現したつもりですが、登場人物に関しては実在の人物とは一切関わりがございません。
作品中、文学表現の可能性を試すべく、画像や音楽を貼付しております。筆者が抱いた心象風景をできるだけ読者と共有できればとの考えに基づく一つの試みです。併せてご堪能いただけると幸いです。
さて、今回はAstrid Sさんという方の"Når Snøen Smelter"という曲を紹介しました。邦題では「雪が解けるとき」となります。心に影を落とすもの、その不明な何かに光が当たり、やがて消え去ることを願う感情を想像していただければ幸いです。
最後に、作中貼付した画像は以下の無料画像サイトからお借りしました。スペースの都合上、一つ一つの作品に関する詳細を記すことができません。この場をお借りしてお詫びするとともに、素晴らしい作品を無料で提供されてくださるアーティストの方々に対し、深く感謝いたします。
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