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ソールヴェイの歌う風 〜ノルウェーの小さな物語13〜

十三

啓介は一人リソイ橋の上から夕日に染まり始めたハウゲスンの街を見渡していた。ノルウェー滞在は後二日を残すだけとなり、オスロ空港での搭乗時間を考えれば、明日にはハウゲスンを発ち、オスロに一泊する必要がある。今日のこの街の夕暮れは啓介にとって今年最後のノルウェーでの夏景色になるに違いない。


昨日、つまりサンドヴェのビーチへ行った翌日はニーナと二人してスタヴァンゲルまで足を伸ばした。そこは北海油田で潤うノルウェー第三の街であり、オスロをほぼ素通りしてきた啓介にとっては自分の身近にありそうな都会の生活風景の中、自分の立ち位置を振り返る時間になった。

自分はどうやってここまでたどり着いたのか。

啓介が自分自身に向けた新たな命題であった。その答えの糸口を見出そうと、貪欲に周囲に視線を向ける啓介。昨日まではどこか不安気で、か細く感じられた肩と並びながら、人々がやりとりする言葉と感情の欠片を心を張り詰めて受け止めようとした。その風景は日本やイギリス、オランダのそれとは全く違うようであり、また同じようでもあった。いつしか、啓介の内に真っ直ぐに向き合うという感覚が蘇ってきていた。ずっと昔にどこかに置き去りにして来た心の状態だった。それはオスロからここまでのニーナと過ごした時間、いろいろなものを体を張って刻み込んできた残照の中で起きた。北の都会の優しい視線に抱かれている感覚をいつしか啓介は手にしていた。

ニーナが不意に提案した。

「ねえ。少しどこかで休憩しない?」

「ああ、いいね。ちょっと喉も乾いたことだし」

二人は手頃なところに見つけたカフェに入った。席について啓介はいつものようにコーヒーを頼んだ。一方、ニーナは眉根を寄せ、しばらく考えた後、レモンティーをオーダーした。それは一組の男女が作り出すごく日常的な一コマだったに違いない。しかし、オーダーしたものが運ばれてくるまでの間、ニーナは一つの言葉をも発しなかった。何かに悩んでいるような雰囲気もない。ただ、思い詰めたようにテーブルの一点を見つめるその目は悔恨の跡を追っているようだった。啓介は宙ぶらりんの感情を映し出した表情をただ視界の端でなぞるのだった。

やがてテーブルの上に静かにレモンティーが置かれた。ガラスの透明な皿の上で、深紅の液体が陽の光を溜め込んで静かにすましていた。それは包み込んでいるもの全てを透過し、白いテーブルの上に淡い赤銅色の影法師を描いた。

ニーナは大きく息を吸い込んだ。いや、深呼吸ではなかった。深紅の液体が生み出す芳香を胸いっぱいに迎え入れようとするような仕草だった。しかし閉じられた両の目の間には緩やかな起伏ができ、薄い影を作っている。

「どうしたの?」

しばらく静止したままのその姿が少し不自然に見えた啓介は、思わず行為の意味を尋ねた。ニーナはふっと一つ小さい息を漏らした後、ゆっくりと目を開くと語り始めた。

「昔ね。小学校の頃なんだけど、私が病気になって、一週間ほど学校を休んだことがあったの」

ニーナは静かに目の前の液体に視線を落とすと、しなやかな指の動きで添えられたレモンのスライスを摘み上げ、そっと液体に沈めた。紅茶の中で滑るように黄色がかき消されていった。

「母は仕事で出かけなくちゃいけなかったので、父が私の看病をするために家にいてくれたの。私は時々、咳き込んだりしたんだけど、そんな私の姿を見た父がレモンティーを作って、横になっていた私のところに持ってきてくれたの」

レモンがゆっくり浮かび上がって来る。重なっていた赤銅色がゆっくりと剥がれ落ち、やがて鮮やかな黄色を連想させる白い日輪模様が水面にうっすらと顔を出した。

「父とレモンティーなんて、その時は想像もできなかった組み合わせ」

「そうなの?」

「父はコーヒー派だから・・・。だからスライスされたレモンの厚さが歪で・・・。なんだかその時ね・・・、突然なんだけど、自分がまだ知らない父を見たような気がしたの。父じゃない部分っていうのかしら・・・。いいえ、父の持つもう一つの部分って言った方がいいかしら。ふふふ、ちょっと大袈裟だとも思ったけど」

周囲の食器の触れ合う音が必死に現実を繋ぎ止めようとしていた。

「あの時のレモンの香りが記憶の中から消えない・・・」

遠くを見つめるようにそう漏らしたニーナの目に一瞬、悲しみの影がさした。啓介の脳裏には自身の記憶にある柑橘系の香りが蘇った。

「それでね。それ以来、何かを探すみたいに、私、今でも時々、思い出したようにレモンティーを口にするの。普段はコーヒー派なのに。あの香りの向こうに別の父が見えるんじゃないかって、そんなことをいつも思ってた。探してたのよ、きっと。でもね・・・」

気持ちの最後の部分は言葉にされなかった。しかし、その声にはどこかさっぱりした響きがこもっていた。それを確かめた啓介は体を少しかがめ、コーヒーの向こうのニーナの記憶に交わるその匂いを嗅ぎ取ろうとした。

「で、父がいなくなって以後、それもできなくなった。探し物はもう見つかりっこないって感じで・・・。本当はもう諦めちゃってたのかも」

「そう・・・」

啓介はただ短く答えた。すべての意味を込めて伝えた。ニーナがこちらにチラリと視線を送った。啓介はずしりとした感情を受け止めた。ニーナは軽く微笑むと、静かにレモンティーを口へと運んだ。それに合わせるように、啓介はコーヒーを口へと近づける。

「うーん、おいしい」

噛みしめるように、ニーナは目を瞑ったままそう漏らした。啓介の心は表現しようのないしっかりしたものを足元に感じた。

「久しぶりに思い出した」

「何を?」

「自分が見つけようとしていたもの」

さりげなく寄越された微笑みに大きな意味が見えた。

限りのある時間の中で、多くの出来事が無表情のまま通り過ぎてゆく。啓介はそうした時間の隙間にできた「隠れ家」に身を潜め、たくさんのものをやり過ごしてきた。母祥子の苦悩、父喜一郎がふと垣間見せた意志の残像、侮蔑の眼差しの裏に見えた兄啓一郎の恐怖、妹翠子の青い諦念。

誰が一体乾いた視線を投げてきたのか?どちら側からだ?彼らからか、それとも俺自身の側からか?

ニーナと過ごした数日は、啓介にとって心にできた古いかさぶたを引き剥がす連続だった。ニーナは苦悩の時間の中でさえ新たな道を見つけ出そうともがいていた。それが時に出血を伴い、痛みを呼ぶものであっても前に進もうとする意志を啓介は彼女の中に見た。

啓介の心の目を過去に向けさせたのは彼女だった。

街を歩く二人の間はビーチでの一件があったにもかかわらず、いや、それがあったが故にであろうか、以前よりもずっと近くなったように感じられた。レモンティーの香りの向こうにニーナが見ているものを感じられるぐらいに。


カフェでの一時の後、近郊をドライブした。途中の景観は噂に聞いていた以上に圧巻だった。フィヨルドの急勾配が作る絶壁と底の見えない海の間を縫う車道を何度も走った。山も海も、奥行きと角度を切り詰めたような威圧感で迫り来る。畏怖が感覚を研ぎすます。全ての人間的感情がそれらを前にひれ伏す。

そうした景観を前に、啓介は自分がひれ伏してきたものの正体を見極めつつあった。

途中、何度か入り組んだ海岸線を結ぶフェリーに乗りながら、海に浮かぶ、かつて氷河が刻んだ風景を柔らかく歌う風とともに船上から眺めた。その広漠な空間構成が心にできた隙間を満たしてゆく。自然の揺るぎない存在感が人の胸の内を覆う灰色の雲を小さく丸め込んでゆく。それを握り潰し、ゴミ箱に投げ入れることができるかどうかが試されているのだと啓介は気付き始めていた。



橋から見下ろす岸にオレンジ色の光源が薄っすらと揺れる。光を吸い取った影がそこここに触手を伸ばしている。両岸の間を時折、強い風の塊がすり抜けてゆく。

ニーナはこの街で、いつ帰ってくるかわからない父親の残像に何を思っていたのだろう。

啓介は改めて前日のスタバンゲルでのニーナの独白を思い起こした。

日差しが赤銅色に液体を貫き、白いテーブルの上にぼんやりとした透明の影を描き出していた。沈められたレモンの一切れが淡いオレンジ色の影に灰色の分身を揺らしていた。



後記

『ソールヴェイの歌う風(十三)』、最後までお読みくださり、ありがとうございます。

この小説は私個人が実際にノルウェーを一人旅した時の記憶に基づき書き下ろした創作小説です。滞在した当時の状況をできるだけ忠実に再現したつもりですが、登場人物に関しては実在の人物とは一切関わりがございません。

作品中、文学表現の可能性を試すべく、画像や音楽を貼付しております。筆者が抱いた心象風景をできるだけ読者と共有できればとの考えに基づく一つの試みです。併せてご堪能いただけると幸いです。

さて、今回ご紹介した曲はEllen Aabolという方の"Vil ha deg"です。なかなかテンポが良くて、お気に入りの一曲です。邦題だと『あなたがほしい』みたいな感じでしょうか。YouTubeチャンネルを見る限り、非常に陽気で元気な女の子のようです。

作中貼付した画像は以下の無料画像サイトからお借りしました。スペースの都合上、一つ一つの作品に関する詳細を記すことができません。この場をお借りしてお詫びするとともに、素晴らしい作品を無料で提供されてくださるアーティストの方々に対し、深く感謝いたします。

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