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ソールヴェイの歌う風 〜ノルウェーの小さな物語12〜

十二

車は澄み渡った朝の日差しの中を南へと走る。目指すはサンドヴェという村にあるビーチだ。

ウィークデーということで人出は多くはないはずだが、夏休み中の観光客がその分多くなると考えて、朝の早いうちに出発することにした。病院にいる母親アナにはビーチに行く旨を伝えてきた。どんな反応を示すのか啓介は大いに不安であったが、一瞬戸惑いを見せたものの、安堵したような笑みで二人を送り出してくれたのが印象的であり、同時に何かを予感させずにおかなかった。


ハウゲスンからサンドヴェという村までの、二時間ほどののんびりしたドライブになった。山道とは異なり、車窓に人の営みの気配が消えることはほとんどなかったが、目の前に広がる起伏のなだらかな景色から緑の広がりが途切れることもなかった。道そのものもオスロの賑やかな幅の広いものとは違っている。冬にはオランダのそれよりも厚い雲に覆われ、暗い表情を見せるであろうどこか寂しい雰囲気が目の前の景色に紛れている。その時、風景全体は冷たい冬の沈黙へと変わるのだろう。上り下りを繰り返すこの道をたどる者は、たまに現れるむき出しの岩肌に脅威を感じるかもしれない。冬の孤独を前に涙するかもしれない。しかしそれでも消えることのない人の気配に勇気付けられもするはずだ。それはハウゲスンまでの山道が持っていない人の息吹が感じられる顔であった。

幸いにも、昨日までの浮き沈みの激しい時間がまるで嘘であったかのように、車内には終始平穏な空気が満ちていた。ガラス越しに手を差し伸べる朝の光も優しく心を撫でる。不穏なものの存在など微塵も感じられない一日の始まりだった。ただ、そんな空気も体に取り込まれるや、抱え込んだ感情のノイズが刻まれてゆくようで胸中には徐々に重たいものが充満してゆくのだった。啓介は自分自身にとって必要な気配だけを見つめようとした。


そうした危うい時間をなんとかやり過ごし、ビーチに立った時、ようやく平穏が訪れた。ニーナはそこがサンドヴェサンドというビーチであることを告げた。白い砂浜が半円状に海を囲んでいるこぢんまりとした空間。静かに吸い寄せられては砂に消える柔らかな波は、遥か先の水平線に限りがあることを語っているかのようだった。

夏の日差しのせいもあってか、目に映る光景は北欧という言葉からは想像し得ないものだった。ゆるい日差しがひんやりした風を貫き、空気を肌になじませる。サンゴ礁こそないものの南国のビーチのように水面は青く澄んでいた。その青に混じり、ニーナは淡い紫色の花を散らしたデザインのサマードレスを身にまとっていた。露わになった肌が夏の光を健康的に吸収し白い砂に映える。潮風が絡んだ髪が踊るように優雅になびき、細いうなじを撫でる。息を呑むような光景だった。

ニーナは今、子供のようにはしゃぎながら砂浜の上でサンダルを脱ぎ、両手にぶら下げて歩いている。その様子が啓介の胸中にあったものを軽くした。ニーナの無防備な心がそこに跳ねていた。一緒にここに来られて良かったと心から感じることができた瞬間だった。

それにつられるように啓介も裸足になった。午前中の光を十分に蓄えた砂がゆるく温かい。足に絡む不器用な砂浜の感触が啓介の胸に眠っていたノスタルジーを刺激する。しかし足裏の皮膚が覚えているのは心の中で色を、形をなさなかった。目を凝らした先はまだ霧でも闇でもないもので覆い隠されていた。

「懐かしい」

「えっ?」

先に呟いたのは波に足を浸したニーナだった。

「十年ぶり・・・」

何気ない告白にはめ込まれた数字のきりの良さが引っかかった。やはり最後にここに来た時間が父親の存在と重なっている。乾いた日差しが喉を締め付けた。波の音が築き上げた瞬間を洗い流してゆくようだった。啓介は全身の感覚を失い、ただ棒切れのように立ちつくした。

「啓介も水に入ったら。気持ちいいわよ」

感情の失せた物体となっていた啓介の体に温もりを吹き込んだのは、やはりその人の声だった。ニーナが誘う。

啓介は水に足を踏み込めないでいた。恐れていた。水が怖いというのではない。今、目の前にあるそれは心を洗う力を秘めている。手を伸ばしたくなる衝動を誘う。しかし啓介は波間に潜んでいるものを恐れていた。目の覚めるように透き通った時の隙間に眠る記憶のかけら。滲んだ憂鬱が行動を押しとどめるのだ。

声のした方向を見つめながら、啓介はしばし渚を揺らすリズムに身を任せる。優しく響く水の跳ねる音。沖合を見つめていたニーナがこちらを振り返った。言葉を発せず視線だけを向ける。消化しきれなかったものが濁流のように押し寄せてくる刹那、流させまいと差し向けられる視線。その力強さを受け止める。か弱く、そしてか細くとも、抗いのメッセージを奏でる音楽を確かに耳にしていた。激しくも、荒々しくもない歌が聞こえていた。

ニーナの頰が緩んだ。啓介はそれ以上何も考えることなく水の中へと歩み出していた。

「うわっ、冷たい!」

突然飛び込んできた刺激に無意識が反応した。視界の隅でニーナの淡い影が揺れているのを感じた。

八月の北海の水は、同じ時期の日本の海よりも格段に凛としている。そこに分け入ろうとする異邦人は夏の陽気に浮ついた自身の甘さを思い知らされる。無心で踏み込んだ啓介は北海に足だけ浸けながら再び棒のように立ち尽くさねばならなかった。そしてその先にはニーナがいた。

風・・・。光・・・。淡い影・・・。人工的なものの存在などどこにもない。

ふと前を見ると、少し先でニーナが微動だにしないまままっすぐ遠くの沖合を見つめていた。右手にぶら下げたサンダルのオレンジ色が陰に陽に揺れている。左手にたくし上げたサマードレスがおり重なり、複雑な模様を作り出していた。解いた茶色の髪が両耳の傍でキラキラと光を弾く。逆光の中、淡い影をまとい、柔らかい曲線に輪郭をなぞられた後ろ姿がぼんやりと海の寒色に浮かび上がっていた。見る者にどこか哀愁を感じさせるそれは、万能の自然の内に現れたか弱き真実の現し身として現れた。

啓介は静かに息を飲み下した。

突然、音もなげに風がひとひら心を掻き撫でた。陽の光の裏に、波間の影に潜んでいた闇の鬼胎が突然口を開く。目の前の真実がゆきずりの波にさらわれる根拠のない映像。失われるべきではないものが永遠に消えてしまうという危惧が四肢の力を奪う。

啓介は必死に己を支えようとした。透明の闇を払おうと意志を体全体に送り込む。やがて、ゆっくりとカメラを向け、静かにシャッターを切り始めた。目の前の瞬間の全てを重ね合わせながら、繰り返し指に力を込め続けた。ファインダーを通して覗いた世界が唯一の抗う力たりえた。

一回、二回、三回・・・。

意志によるこうした行為こそが意味のある営みに思えた。きっとどれも同じような構図であったに違いない。しかし、その一枚一枚がそれぞれ特別な真実を語りながら、別々の意味を生み出しているように感じられた。一つ一つが全てを兼ね備えていた。その連関こそが確実なものとして心に降り立った。

ファインダーからゆっくりと目を離してニーナを見つめる。言葉にできない思いがこみ上げる。美しく、悲しく・・・、また、優しく、そして強くもあっただろう。気がつけば、啓介は肩で息をしていた。微かに潮が混じる空気を何度も飲み込んでは吐き出していた。その場所が生み出す存在感に体が一つになるのを感じた。

ん?

気のせいだろうか。被写体はファインダー越しに見ていたよりも少し深いところに立っているように見えた。

いや?ファインダーからの風景とは実際は違って見えるはずだ。

使い古しのレトリックがするりと思考に割り込む。脳裏で見慣れた己の姿が涼しげな顔で肩を竦めた。もやもやがじっとりとした汗を絞り出す。

頭を揺らし、招かれざる旧友を追い立てた。そして今一度、自分自身の目で現実を実測し直す。たくし上げたスカートの柔らかい布地の上を水が這い登っている。

いや、違う!ニーナは沖に向かっている。

水とサマードレスが描く幾何学模様が無防備のすりガラスを打ち破った。内面世界を温めていた光景から急激に色が死に絶えてゆく。こみ上げる不安が悪意を込めて啓介の胸を強く打った。

落ち着け。落ち着け。

かつて経験したことのない焦りと熱を失う恐怖を前に、理性を保とうと懸命に己に声をかけた。数字の持つ冷ややかさで平静を呼び戻そうとした。

三メートル?いや、五メートルか?

しかし数字は虚しく空を切り、その間にも被写体はゆっくりと、しかし確実に沖合へ遠のいてゆくのが感じられた。思考しているこの瞬間もじりじりと何かがこぼれ落ちてゆく。

「ニーナ!」

不安は呼びかけとなって現実を得た。反応はない。

「ニーナ!」

今度は叫ぶ。ニーナはやはり反応しなかった。そしてさらに深みへと踏み込んでいた。

「ニーナ!」

啓介はより大きな声で叫びながら、後を追うように自らも深みへと踏み込んだ。水を吸い込んだジーンズが足に絡まって重く前進を阻む。その間にもニーナは前へと進み、既に膝上を優に超えたところまで海面が来ていた。

「ニーナ!」

追いつけそうでなかなか追いつけないもどかしさの中、叫び声は虚構に飲み込まれては霧散するばかりだった。海の青さが破壊の牙をむき出しにする。ぽっかり開いた穴に世界が吸い込まれ消えてゆく。啓介は逃すまいと手を伸ばす。繋がっていた糸を手繰り寄せようともがいた。姉と弟の間に突き刺さった言葉。青い諦念。母娘を分けて流れる小さなせせらぎ。誰かの侮蔑の眼差し。去っていった者のぼんやりとした輪郭。声にならない声。ひたひたと後をつけてきた緑の視線。うっすらと前途を覆う夜の霧。物体が生み出した無数の光と影。寂しい山道での暗い告白。足場を失い揺れ動いた自らの過去。文学で記された生き様。記憶の中で眠っていた旋律。針葉樹の森に浮かぶ木造建築とそれに託した約束。湖畔のコーヒーの芳香。飴色の味覚。名も知れない鳥たちのさえずり。潮風にふわりと踊った茶色く輝く髪。予言された孤独。

伝えておかなければならないことがある!

「Chotto matte!」

どんな言葉を使おうと、話しておくべき自分自身があると何かが叫んでいる。そしてそれを可能にするものは・・・引き摺り込もうとする力に抗う一つの道筋だったかもしれない。あの橋上での舞い上がるような・・・。

あと二メートル。水はますます抵抗を強める。激しく水しぶきを巻き上げるが距離は思うように縮まらない。立ちはだかるものの罪の深さを知り、苦悶にのたうつ。

一メートル。

必死に左手を伸ばすが、指先はまだ虚しく空を掴む。啓介は今、ミリ単位の宇宙の中身を覗き込んでいた。それは全てを暗く塗りつぶす漆黒の目をしていた。

しかし何度目かの努力を経て、仁王立ちで目の前に立ちはだかっていた小宇宙は突然するりとほどけた。ニーナの腕を捉えた左手にふんわりとした温かい感触が伝わった。失いかけていた現実が形を取り戻した。

絶対にこの記憶を離さない!

全裸の感情が胸の内で弾けた。

啓介はゆっくりとニーナの正面へと体を滑り込ませた。視線を遮るように瞳を覗き込む。榛色の小円の中で自身の姿が像を結ぶのを見た。涙が溢れていた。頰にはその軌跡が幾筋も刻まれていた。

「ニーナ?」

優しく呼びかけるが反応はない。まだ意識がどこか遠くをさまよっているような表情だった。包み込むようにそっとその体を抱き寄せる。上半身でその温かさを受け止めた。ニーナの体の重みが最初は恥じらうように、のちには信頼を伝えるかのように真っ直ぐに寄せられた。体の温もりが互いの内部に染み渡ってゆくのを感じた。その温もりからしぼり出された悲しみが言葉にならないかすかな声とともに潮騒に溶け出した。小さな肩が震えている。海の匂いに悲しみが混じる。そのまましばらく啓介はニーナの体を支え続けた。

打ち寄せる波の優しさの中で体を受け止めながら、啓介は長く自身の心にのしかかっていたものの正体をようやっと垣間見た気がした。

どれぐらい時間が経過しただろう。腕の中でニーナが啓介を見上げようとするのを感じた。ゆっくりと両腕を解く。

「大丈夫?」

ニーナの瞳が啓介を捉えた。

「私、どうしたの?」

潮風が静かに二人の周りで戯れていた。意識はしっかりと啓介を捉えている。

「私、泣いてたの?」

瞳と瞳を絡めながら答える。

「そうだね」

「どうして?」

「心の奥にある大事なものに触れたからじゃないかな」

「大事なもの?」

「うん。つまり・・・君自身の物語を書くのに必要なもの・・・」

「私自身の物語?」

「うん・・・うまく表現できないんだけど・・・」

啓介はそれ以上、説明する言葉をまだ持ち合わせていなかった。

自分の身に起こったことを振り返ろうと沖に向けたニーナの目に光が差し、茶色く透けた。それは宝石のように美しく完璧なほどに澄んでいた。

「私、沖の方を見ていたの」

「うん」

「海はずっと遠くまで広がっていて」

「うん」

「ずっとずっと」

「うん」

「大西洋を跨いで・・・」

「・・・・」

「その先はアメリカで・・・。父がいる」

「お父さん?」

「ええ」

心に灰色の雲が広がった。

「そこから先は覚えていない」

やはりこの場所はニーナにとって特別な場所だったのだ。心の奥に閉じ込められていた思いがこの場所に立つことで溢れ出し、先ほどの行動へと彼女を押しやった。そう確信した。

心が重く沈んだ。ニーナを危険に追い込んだ自分を激しく責めた。精神が悶絶した。しかしその一方で、二人を包んでいた風はどこまでも柔らかく、日の光は清らかで、潮騒は穏やかだった。過ちも葛藤も全て等しく至福と同じ席を与えられ、和やかに時の流れに身を寄せ合うことを許されていた。

「ニーナ、ごめん」

「え?」

「ここに来なきゃよかった」

「どうして?」

「だって、危なかったよ。あのまま海に沈んでしまうんじゃないかって思って怖かった」

体ががたがたと音を立てていた。

「死ぬと思ったの?」

「死ぬというか・・・」

「私、死ぬ理由なんてないわ」

「そうかもしれないけど・・・。消えてしまうような気がした」

「消えてしまう?」

「上手く説明できないんだけど・・・」

足下から血が抜け落ち、生命の力の干からびてゆくようだった。支えられているのは実は啓介の精神であり、ニーナの内部にあるものが啓介の渇きを癒しているのだと感じ始めていた。

「・・・怖かった」

「怖い?」

「うん」

二人は考え込むように、しばらく沈黙に身を置いた。啓介の心にははっきりと、何かを失うことへの恐怖に似た感情が生まれていた。

「とにかく、お父さんへの思いがどんな形で現れるかわからない。もっと考えるべきだった」

「父への思い?」

「そう」

「きっとそれは君が思っているよりもずっと強い気持ちだと思う」

ニーナは水平線へと視線を向けた。そのまま考え込むように、再び沖合を見つめた。

「ごめんね。本当はここのことはモルテンから聞いたんだ」

啓介は白状した。

「モルテンから?」

「うん。昔家族でよく行ったって聞いた。それで、多分お父さんがまだいた頃かなと思って」

ニーナは隠された言葉を探すように啓介の瞳を見つめた。

「もし今、僕が誘ったら、君はお父さんへの思いと僕との時間とどちらを取るんだろうなって考えた」

沈黙に割って入る言葉はなかった。

「こんな風に追い詰めるなんて・・・。来なきゃよかった。ごめん」

「確かに、私がここに最後に来たのは父がまだいた頃。平和な時代だった。でも・・・。いいえ。だからそれ以来一度も来ていなかった」

そう言って見つめ返すニーナはしかし、自分の内に何かを探しているように見えた。

「きっと、家族の誰もが怖くて来られなかったんだと思うの。今は」

「そう・・・なんだ」

「でも・・・、私、変わらなくちゃ」

「え?」

「ペールは『おのれ自身であること』を問い続けてさまよった。父も父なりに同じような何かを追っているように思うの。もちろんそれはペール的なおのれじゃないはずだけど」

「ニーナ・・・」

「私、変わりたい。私自身の物語、書いてみたい」

強い決意がこもった一言だった。しかしその次の瞬間には、ニーナの声は初めて会った時のように、啓介の内面を掃き清めるような響きに変わっていた。

「でないと、いつまたこんなこと・・・、えっと、下着まで濡れるぐらいに服を着たまま海に浸っちゃうようなことをしでかすかわからないから」

その言葉に続いたのは屈託のない笑顔だった。啓介も雑巾のように濡れた自分のジーンズを見て笑った。丸くなった二人の笑い声が潮風と共に流れていった。ニーナの瞳からは再び涙が溢れ出した。その涙には何か重いものを洗い流した後のような裏表のない笑顔が添えられていた。

ひとしきり笑い合った後、とりあえず浜辺に上がることにした。啓介が左手を差し出す。ニーナが右手でそれを受け取った。行き来する温かいものは体温だけではない。それはそのまま啓介の心にふんわりと被さった。

互いに支え合いながら、ゆっくりとしっかりと、波が絡まる足を二人して踏み出す。

やがて砂浜に降り立った二人の手と手が名残惜しそうに解けた。ニーナは一瞬、何かを語りかけるような視線を啓介の瞳によこした。それからゆっくりとそれを落とすと、濡れそぼったスカートを絞った。生地が吸い込んだ海水が砂の上に解き放たれる。その様子を黙って見守る啓介。

「あのね、啓介」

滴り落ちる雫を追いながらニーナが切り出した。

「ん?」

「私もそろそろ父のことは過去にしまって先に進まなきゃって思っていたの。だから啓介が誘ってくれた時、これをきっかけにしたかった」

微かな波の音に囲まれる中、啓介は次の言葉を待った。

「ありがとう」

啓介はニーナの口から漏れた感謝の言葉に戸惑いを禁じ得なかった。長らく人間関係を覆ってきたであろう冷たい影。そしてそのことによって瞳の輝きを奪われてしまった人たち。きっとニーナもその一人のはずだった。既に恨みや不満という言葉さえ噛み合う角度を失ってしまったに違いない思いの澱(おり)。それを掬い上げることができる言葉が手の届くところにあるとは啓介には信じられなかった。あるいは、十年という時間は想像を超えた真実の力を秘めているのだろうか?

しかし、そんな一瞬の戸惑いが掌にゆらゆらと落ちてくる前に、厳かな静謐が全てを押し流していった。理解できるものも、そうでないものも全てが消え去り、目の前にはただその瞬間という現実だけが残された。

啓介はニーナのその言葉を頭の中で繰り返し追いかけた。自らの物語が時の流れの中、終着点を見つけられずに虚しく円を描いていた。

「あんな風になるなんて思いもしなかったけど・・・。啓介が私を救い出してくれた。私は感謝してるわよ、あなたに」

啓介の動揺を感じ取ったかのようにニーナは言葉を重ねた。

「そう言ってくれると気が楽になるけど・・・」

啓介の気分はまだ、二人に今降り注ぐ陽の光ほどには晴れやかなものではなかった。

「ねえ、啓介」

「ん?」

「いつか私をウルネス教会に連れて行ってくれる?」

「えっ?!」

瞳の深いところに決心が宿っていた。その輝きが啓介の進むべき道を照らしている。ゆらゆらと真っ直ぐに・・・。

「お父さんとの約束はいいの?」

冷たい海が波打ち際で暖かく奏でる旋律が勇気の糧となった。ニーナは自分に確認するかのように小さく笑顔を返した。二人の間にもう直接の言葉は必要なかった。



後記

『ソールヴェイの歌う風(十二)』、最後までお読みくださり、ありがとうございます。

この小説は私個人が実際にノルウェーを一人旅した時の記憶に基づき書き下ろした創作小説です。滞在した当時の状況をできるだけ忠実に再現したつもりですが、登場人物に関しては実在の人物とは一切関わりがございません。

作品中、文学表現の可能性を試すべく、画像や音楽を貼付しております。筆者が抱いた心象風景をできるだけ読者と共有できればとの考えに基づく一つの試みです。併せてご堪能いただけると幸いです。

さて、今回はEva Weel Skramさんという方の"Evig Eies"という曲を紹介しました。邦題にするためにどう翻訳して良いのかわからないんですが、自動翻訳では歌詞の内容はストーリーのシーンに合っていると思います(多分)。非常に雰囲気のあるいい曲だと思います。お楽しみください。

二人が訪れた場所ですが、正直、私自身は訪れたことのないSandvesandというビーチです。小説内で表現した通り、写真等で見る限りは、こぢんまりとした、それでいて南国情緒を感じさせる素敵なビーチのようです。機会があれば是非訪れてみたい場所でもあります。

最後に、作中貼付した画像は以下の無料画像サイトからお借りしました。スペースの都合上、一つ一つの作品に関する詳細を記すことができません。この場をお借りしてお詫びするとともに、素晴らしい作品を無料で提供されてくださるアーティストの方々に対し、深く感謝いたします。

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