ソールヴェイの歌う風 〜ノルウェーの小さな物語3〜
三
「凄い場所ですね、ここ。なんか、こう昔の時代の雰囲気のいい木造建築がずらっと並んでて」
「ええ。ノルウェーの過去600年の本物が並んでいますから」
「本物?」
「ええ。実際に昔からあった建造物を移築して展示してあります」
「へえ、そうなんだ」
「全部で約150棟あります」
「え?そんなに?」
啓介の心から驚いた様子にその女性はちょっとはにかんだような笑顔を見せて俯いた。おそらく自国のことを肯定的に伝えることができたことに喜びを感じるとともに、聞き手との間合いを探る不安さが気持ちを覆っている、そんな印象だった。
「あの・・・、さっき見た教会みたいな高い建物、凄かったです」
彼女の反応は素早かった。
「教会?ゴル・スターヴ教会のことかしら?」
「名前は・・・忘れちゃったけど。とんがったピラミッドみたいなやつです。背の高い」
「ゴル・スターヴ教会のようですね」
「多分・・・」
確信のない同意で話を継ぐ。
「あれは1200年頃に建てられたと言われているスターヴ教会で、1881年に当時スウェーデン王とノルウェー王を兼ねていたオスカル二世によって移築されたものです」
「スターヴ教会?スウェーデン王とノルウェー王を兼ねていた?」
「ええ。スカンジナビアの歴史はご存知ですか?」
「いいえ。あまり詳しくは知らないです」
そう聞くや、彼女は腰掛けたまま、簡単にノルウェーの歴史を話してくれた。九世紀のヴァイキング時代にノルウェー沿岸部の統一が達成され、ノルウェー王国が成立したこと、その後の王家の権力闘争から衰退し、十一世紀にはデンマークの一部になったこと、十二世紀末に独立を回復し十三世紀半ばにノルウェー王国はスカンジナビア半島の大部分とアイスランド、スコットランドをも支配する最盛期を迎えるが、十四世紀終わりには王家が途絶え、再びデンマークの支配下に入ると、1536年に正式に独立を失ったとのことだった。そしてナポレオン戦争後、ノルウェーはスウェーデンに譲渡され、同君連合を形成したが、1905年に国民投票によって無血で独立を達成。デンマークから王子を迎え、ノルウェー国王ホーコン七世として即位することで現在のノルウェー王国が存在するのだという。
高校の世界史の授業で北欧史は触れられたことがあるのかもしれないが、啓介は自分の人生の中でスカンジナビア諸国の歴史に想いを馳せたことはなかった。
ふと啓介は自分の過去を省みてみる。慎重に周囲との距離を測り、飛び越えることのできないものをめぐらしながら生きてきた自分自身のこれまでを。ノルウェーという見えなかった存在の中に、今、自分は存在できているのだろうか。足を下ろす場所はあるのだろうか。
啓介はこれまで想像だにしなかったことを今自分に問うていた。
「それから、スターヴ教会のことですが・・・」
意識が再び優しい響きに吸い寄せられた。
「スターヴとはノルウェー語の『支柱』のことで、建物の重さを支える支柱を使って建てられた教会という意味です。ヨーロッパ北西部では、石造りの教会が建てられる前によく見られた建築様式と言われています」
「へえ」
「現在はヨーロッパ全部を合わせても30棟を少し上回る数しか残されていません。そのうち、ノルウェーには再建されたものも含め28棟が現存します。元々は1200棟ほどあったと言われているんですが」
「そんなに希少なものだったんだ」
「ええ」
「で、どれも数百年前からのものなんですか?」
「ええ。焼失して再建されたもの以外は」
「ここにあるのも凄いけど、他にもっと凄いのがあるんですか、スターヴ教会?」
「ええ。ノルウェー最大のものとか、保存状態の極めていいものとか」
「へえ。どんな感じなんだろう?」
「ちょっと待ってください。写真集がありますから」
そう言って、彼女は椅子から立ち上がると、傍にあった棚へと向かった。
立ち上がった彼女を2メートルの位置で視界に止める。民族衣装の衣摺れに混じってそっとかぐわしい香りが鼻腔を満たした。恥じらうように控えめに舞う彼女の気配。啓介は思わず半歩分足を踏み出した。手が届きそうで、実際そうではない場所にある非現実的な現実感がそこにある。その中でその人の存在だけは確かなものと感じられる。
彼女は大きな厚い本を出し、長椅子の後ろにあったテーブルのような家具の上に広げた。そして啓介の方を見やると、日差しを受けて透き通った瞳で手招きした。
啓介は一瞬の軽いためらいを感じたのち、左足を踏み出した。心は結界に捕らえられた魔物のように抗いながらも、体は吸い寄せられるように数歩先のその招かれた場所を目指した。優しく漂っていた彼女の香りが何重にも重なってゆく。
その人は椅子に座り直し、真ん中よりも右寄りの不自然な位置に写真集を広げた。そしてページをパラパラとめくった後、突っ立ったままで身動きのできない啓介を軽い微笑みで座るように促した。啓介はテーブルの、二人で写真集を挟むような位置に身を滑り込ませた。
彼女の手がページを裏返してゆく。その手は薄明かりの中でぼんやり輝いていた。ページが流れてゆくたびに、しなやかな白い指が啓介の胸元を右に左に滑ってゆく。頭の内側が痺れるような感覚に襲われた。
体に取り込んだ彼女の気配を逃したくない。
いつの間にかそんな感情が胸の内に膨らみ、肺に溜まってきていた。胸が重い。ムンク美術館で体にまとわりついていた不快なものが浄化されてゆく。窓の外では鳥たちのさえずりが夏の日差しに響き渡っていた。
柔らかい静寂が重くなった気持ちを解きほぐす。どこかにしまい込んだままになっていた古い感情がゆっくりと目を覚ます。
「スターヴ教会というのは大きく二つのグループに分けられます。回廊のあるタイプとないタイプです」
ページを繰る手を止め、啓介の瞳を伺う。
「内部に回廊構造を持つタイプは比較的大きな教会で、ここにあるゴル教会もそうしたタイプのものです」
啓介は30分ほど前に目にした光景を掘り起こした。
「内部に回廊がある分、屋根も高くなります。ヘッダール教会がその代表で、ノルウェー最大のスターヴ教会になります」
彼女は写真集の一つのページを開いた。そこには尖塔を三つ頂いた巨大木造建造物が寒さに澄んだ青空を背に佇んでいた。被さった白い雪と冬の樹木によって幾分かトーンダウンされているが、その重量感とスケールの大きさは数十センチ四方の写真からも溢れ出ていた。
「このタイプのもので、一番有名なのはブルグンド・スターヴ教会です」
彼女はまた別のページを開く。
「ブルグンド・スターヴ教会は50クローネ紙幣にも描かれていたのでノルウェー国民にとっても馴染みの深いスターヴ教会です」
そう言って、また別のページが開かれようとしているところだった。啓介はちらりと、一秒の何百分の一かの時間で視線を右に滑らせた。その行動は何かを確認する儀式だったかもしれない。
滑らせた視線がそっとその人の頬に触れた時、啓介は確かな何かを手にした。
それからゆっくりと、今度はその指先にあるものへと焦点を移す。山のような緑の壁を背景にそびえ立つ木造建築が目に入った。その形は記憶にあるどの木造建築物とも接点を見いだすことができない特異な姿をしていた。中央に伸びた尖塔からは、左右に手を広げたような装飾が空に向かって伸びている。重なり合う屋根とそれを支える壁には鱗のような文様が走り、その威容は不思議にも、どこか幼い子供が描く日本の城郭を思わせた。空に向かって広げられた直感の姿が見えた。忘れていたものが胸に静かに舞い降りる。
写真の角度からは十字架は確認できないが、周囲を取り巻く墓石は、それが人の生死に携わる場所であることをうかがわせる。それはまさしく「もう一つの世界」の存在を信じさせる姿であった。
「あの・・・。回廊ってなんですか?」
突然、裏も表もない疑問が口をついた。意味も目的も持たずに流れ着いたこの国で、初めて誰かの思いに自分の意識が触れた。彼女は啓介を見つめ、一瞬の間を置いた。頭の中で何かを探っている様子が栗色の瞳の中心からうかがえた。
「回廊というのは・・・」
彼女はそう言って立ち上がると、先ほどの棚から紙とボールペンを取り出した。そして座り直すと、おそらく教会のものであろう平面図らしきものを二種類描いた。外壁とその内側に柱が並んだ図と、単純に外壁だけのもの。彼女は内側に並んだ柱と外壁との間にぐるりとできる廊下のような空間を回廊と呼ぶのだと教えてくれた。
啓介はいつになく真剣な気持ちで彼女の講義に耳を傾けた。それはスターヴ教会の構造についての好奇心によるものだけではない。ただ、隣から紡ぎ出される空気の波紋に酔ってみたかった。そこに温度があったから。ペンを持つ彼女のすらりとした指を眼で追うのが心地よかった。そこに躍動するものが息づいていたから。柔らかい声を体の中で記憶しようとした。それが溜まった澱を浄化してゆくのを感じたから。
啓介はずっと昔、世の中が啓介にとってまだ複雑な顔を見せなかった頃に傍にあったはずの、どこか懐かしい感じを思い出していた。
「逆に、内部に回廊のないタイプは割と小さな教会で、その代表的なものがウルネス教会です」
彼女の話は写真集に戻り、新たに一つの写真へと啓介の意識を誘った。
そこには黒いとんがり屋根の建物があった。歳月の深遠さを匂わせる黒く染まった木造建築。これまで見せられたものよりもこぢんまりとした佇まいだった。しかし、その建物を取り囲む空間は特殊という言葉さえ超越していた。夏の風景である背後の海はフィヨルドに抱かれ、まるで凍るような青さと深淵さで静まりかえっている。氷の表情の先には威圧するように立ちはだかる断崖。空が切り取られていることで、背景の重々しさは見ている者の視覚で支える格好になる。その断崖は絶壁ではないが急な傾斜を作り、表面には緑の雪崩のように針葉樹の森がごつごつと駆け上がっている。
普通ではない構図に視線が絡め取られる。先ほどまでの体が浮き上がるような、微熱をまぶした高揚感は消え失せた。人間には到底作り出せない自然の姿と人間が数百年にわたり細々と繋いできた歳月の連環。種類の異なる自我がぶつかり合い、擦れ合い、せめぎ合い、数十センチ四方の紙の上で重い悲鳴を上げている。しかして、教会の周りを囲う芝の緑が現在を生きる者にとって唯一日常への足がかりとなり、両者の微妙な均衡に足を下ろす道を提供していた。
啓介の心は恐怖に震えた。収まりきらないもの同士が生み出す緊張と、そこに否応無しに招きこまれる恐怖。いや、実際にはそれは恐怖とは別の何かだ。なぜなら、そこには生へと通じる道筋がはっきりと見えるからだ。理性がそれを形にしようと言葉の網を打つ。同時に、言葉で捉えきれないことの不安がさらに心の支えを揺らす。
そして・・・。そこに現れた均衡が先ほど啓介の心を穿ち、あふれ出てきたものを押し止めた。
啓介がようやっと「畏敬」という言葉をその感覚にかぶせた時、精神の落ち着きが戻ってきた。四隅がピタリと重なり合った感覚はなかったが、ムンク美術館以後、心に巣食っていた息苦しさは完全に消え去っていた。
「これはこじんまりして、なんとなく教会って感じがしますね」
出てきた言葉はどこまでも平凡だった。
「ええ。でも、このウルネス教会は現在最も特別な場所なんです」
「特別?」
短い沈黙が二人の間に割り込んだ。
「ええ、最もよく昔の状態を保存している教会なんです」
「昔の状態ですか?」
「ええ。内部は約800年前に近い状態です」
「800年!」
文字通りの感嘆が啓介の口からこぼれた。啓介の視線は彼女の整った顔立ちと写真の間を行き来した。先ほど「畏敬」と名付けた何かが不敵にこちらを見つめている気がした。
「この教会はオスロから遠いんですか?」
「ええ?」
啓介は突然、この「畏敬」と命名したものに対峙してみたくなった。
「すごい・・・。見てみたいな、ここ。あなたは行ったことありますか?」
戸惑ったように啓介を見つめる瞳にちらりと影が揺れた。
「一応、レンタカーを借りてあるんで、そこまで行けるのかなあと思ったんですけど」
「・・・。残念ながら、私もまだ行ったことがありません」
数分前の弾むような勢いだった声が今は暗く翳りを帯びていた。周囲との共鳴を拒んでいる。小さな不審が啓介の頭をよぎる。
「でも、オスロから車だと・・・。そうですね、十時間ぐらいかかるかもしれませんよ」
「ええ?十時間・・・」
耳にする声音(こわね)の変化をはっきりと感じ取った啓介は、何か触れてはならないものに触れてしまった気がしたが、小国ノルウェーの広大さが小さな後悔を吹きならした。頭の中ではすぐに現実の組み替え作業が始まる。
途中、二三泊するとして、往復で五泊程度。ほとんど車の運転をしているだけで休暇が終わってしまうことになる。特に何かしたいことがあってノルウェーへ来たわけではなかったが、ドライブを楽しむような趣味もない。
そんなことを考えながらふと隣を見やると、その人はじっとおし黙り、ぼんやりとウルネス教会を見つめていた。先ほどまで淀みなく溢れてきた言葉は栓を閉じたようにピタリと止んでしまっている。彼女の言葉を押しとどめているものの正体に啓介は戸惑った。
「十時間もかかるんならウルネス教会は無理かなあ」
「だったら、ヘッダール教会はどうですか?」
我に返ったように答えが返ってきた。
「ヘッダール教会?」
「はい。さっきお話ししたノルウェー最大のスターヴ教会です」
彼女はもう一度先ほどの写真のページを開いた。
「ここだとオスロから車で二時間ぐらいで行けます」
そう説明してくれる彼女の表情はしかし、先ほどまでとは違ってどこか影に覆われている。
「ああ、それは丁度いい距離だな」
啓介の視線の先には早くもまだ見ぬ歴史の証人の姿が立ち現れていた。
後記
『ソールヴェイの歌う風(三)』、最後までお読みくださり、ありがとうございます。
この小説は私個人が実際にノルウェーを一人旅した時の記憶に基づき書き下ろした創作小説です。滞在した当時の状況をできるだけ忠実に再現したつもりですが、登場人物に関しては実在の人物とは一切関わりがございません。
今回はノルウェーの歴史やノルウェー民族博物館について触れました。後者については現在のものではなく、90年代初頭の夏に私が訪問した時のことを思い起こしながら書きました。内容の正確性については自信がありません。間違いがありましたらご指摘いただけると幸いです。
作品中、文学表現の可能性を試すべく、画像や音楽を貼付しております。筆者が抱いた心象風景をできるだけ読者と共有できればとの考えに基づく一つの試みです。特に音楽はノルウェー語の楽曲を中心に、どれも私自身が創作中にBGMとして耳にしてきたものばかりです。この機会にノルウェーの音楽についても知っていただければ幸いです。
最後に、作中貼付した画像は以下の無料画像サイトからお借りしました。スペースの都合上、一つ一つの作品に関する詳細を記すことができません。この場をお借りしてお詫びするとともに、素晴らしい作品を無料で提供されてくださるアーティストの方々に対し、深く感謝いたします。
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