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作家・門田隆将(門脇護)のモラルハザードを問う 第9回
連載第8回に引き続き、門田隆将著『この命、義に捧ぐ』の疑惑についてご紹介しますね。
ときどき難読な記述が続くことがありますが、辛抱強くお付き合いください。根本博中将の手記が「文藝春秋」1952年夏の増刊号に掲載されたものであるため、戦時中に使われていた旧字体の漢字(画数がムチャクチャ多いもの)が多用されているからです。正確を期すため、原文の旧字体を生かしつつ、読みづらい漢字にはところどころフリガナを入れました。
■門田隆将氏の疑惑(171)〜(175)
◆門田隆将氏の疑惑 その171
【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】58ページ
急に船の廻りが騒がしくなつた。船主がやつて來て「李さん一寸(ちょっと)來て下さい。其他の方は室から出ないやうにして下さい」と言ふ。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】33ページ
ふたたび眠りについた根本が周囲の喧騒で目が覚めたのは、早朝のことである。
船主の李麒麟が血相を変えて、船室に入ってきた。
「李さん、ちょっと来て下さい。ほかの方は船室から出ないで下さい」
◆門田隆将氏の疑惑 その172
【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】58ページ
何事が起つたのか、と室の戸を細目にあけて海上を眺めてみると、漁舟に鳶口(とびぐち)や獵(りょう)銃等を持つた消防風の男が十二、三人乘つて捷信號を監視して居る。私は左舷、卽ち陸岸の方を見たのだが、右舷を見た者の話に依ると右舷、卽ち外海寄りの方にも一隻居るとの事である。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】33ページ
根本は、船室の扉から左舷側の海上を見た。そこには、漁船が一隻停まっていた。デッキには、銛(もり)や鳶口(とびぐち)を手にした男たちが十二、三人乗って捷信號を睨みつけている。
緊張感が走る。右舷にも、一隻いた。
根本博中将の手記では「鳶口」「猟銃」が武器として記録されていますが、門田隆将氏の本では「銛」「猟銃」が武器だったことになっています。史実としてどちらが正しいのかは、定かではありません。
◆門田隆将氏の疑惑 その173
【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】58ページ
丗(さんじゅう)分程たつと漁舟は漕ぎ去った。船員の話に依ると、船主と李とが巡査と同行して警察署に往つたとのことである。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】33ページ
間もなく李麒麟と李鉎源は、その漁船に乗せられ、去って行った。
「巡査が来ています。警察に連れていかれたようです」
船員の一人が根本にそう説明した。
◆門田隆将氏の疑惑 その174
【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】58ページ
一行各人の間では色々な想像が行はれ、若い氣の早い連中は泳いで上陸して逃げようなどと言ふ者も有つたが、私は一旦渡航を決意した以上、輕々(かるがる)しく想像などを基礎にして決意を變更(へんこう)すべきものでは無いことを諭(さと)して、氣の早い者を引き留めた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】33ページ
一行の中に動揺が走った。
「(密航が)ばれたのかもしれない」 「泳いで逃げましょう」
そんなことまで口にする者もいた。根本が、いったん渡航を決意した以上、まだ何もわかっていない段階で軽々に決意を翻すものではない、と諭し、メンバーの動揺を鎮めた。
◆門田隆将氏の疑惑 その175
【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】58ページ
午前十時頃漁舟で船主と李とが歸(かえ)つて來た。其の話に依ると、警察では捷信號を密輸船と思つて警鐘を鳴らして消防隊を集め船を抑留しようとしたが船が臺灣(たいわん)船であり、且つ天候の關係(かんけい)で避難假(かり)泊中といふ事情が判つた
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】33〜34ページ
やがて、李麒麟と李鉎源が漁船で船に戻ってきた。すでに午前十時をまわっていた。
李鉎源が笑っている。
「危なかった。あやうく密輸船として抑留されるところでした。船が台湾籍だったので助かりました。嵐を避けて入江に避難し、仮停泊しているだけです、と説明してやっと納得してもらいました」
■門田隆将氏の疑惑(176)〜(180)
◆門田隆将氏の疑惑 その176
【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】58ページ
警察では昨夜來の輕擧(けいきょ)を謝し、炊き出しの飯や飲料水などを贈つて來たとの事である。
其の夜天候も恢復して來たので、有明灣を出て南へ下つたが、海上も靜かになり、氣温も昇つて來て愉快な初夏の航海であつた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】34ページ
逆に、警察が誤解を詫びて、炊き出しのご飯や飲料水などを提供してくれたとのことで、二人は両手いっぱいにその 〝戦利品〟を持って帰ってきたのである。
一同、それを聞いて、安堵の笑いが広がった。
ふたたび船は南下を始めた。
◆門田隆将氏の疑惑 その177
【根本博「私は金門防衛日本人司令官だった」(「日本週報」1961年2月20日号)】6ページ
船はわずか十六トンのポンポン船である。嵐にあえばひとたまりもないだろう。何か言いしれぬ緊迫感が私たちにはあった。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】24ページ
突然、灰色のポンポン船が近づいてきた。
(略)
一行が待ちに待った船だった。重量二十六㌧。かなり老朽化しており、お世辞にも立派な船とは言い難かったが、貿易で台湾と日本の間を行ったり来たりしている台湾船だ。
根本博中将の手記ではポンポン船は16トンだったと記されていますが、門田隆将氏の本では26トンと書いてあります。史実としてどちらが正しいのかは、定かではありません。
◆門田隆将氏の疑惑 その178
【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】59ページ
一同ホツとして蘇生の思ひで船を海岸に乘り上げて船體(せんたい)を良く検査してみると、あまり大きな損傷では無いが、船板一枚が割れ、割れ目の一部が穴に成つて居るとのことだ。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】103ページ
沈没の危機を乗り越え、やっとのことで船が島に乗り上げると、一行は砂浜に飛び降りた。台湾は、まだまだ遥か先だ。
さっそく全員が船のまわりを注意深く見てみた。左右前後、船体のあらゆる場所をそれぞれが見ていく。
「あっ、ここだ」
その場所はすぐに見つかった。あまり大きな損傷ではないものの、船板一枚が割れており、その割れ目の一部が穴になっていた。
◆門田隆将氏の疑惑 その179
【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】59ページ
然(しか)しあいにく船には修理材料も器具も無い。仕方がないから布團(ふとん)をこはして綿を取り出し、割れ目には綿をつめ、穴の所には外側から板を打ち着けることにしたが、此の打ち着ける釘が無い。いろいろ苦心の末、船室内の帽子掛や手拭掛に使つて居た釘を抜き取つて板を打ち着けた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】103ページ
しかし、船には修理するための材料も器具もなかった。思案をこらした末に、布団をといて綿を取り出し、割れ目につめることにした。そして、穴のところには外側から板を打ちつけることにした。まったくの応急処置である。
しかし、船には打ちつけるための釘さえなかった。仕方なく船室内の帽子掛けや手拭掛けに使っていた釘を抜き取って使った。
◆門田隆将氏の疑惑 その180
【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】59ページ
これで假(かり)修繕は終つたが、乘り上げた船はナカナカ人力では卸りない。然(しか)し幸なことには乘り上げた時が干潮時だつたから、満潮を待つたら卸りるかも知れないと云ふので次の満潮を待つことにした。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】104ページ
仮修繕は終わったが、今度は新たな問題が浮上した。浜に乗り上げた船は、人力ではなかなか海に浮かべることは困難だ。
「乗り上げた時は、偶然にも干潮です。満潮になったら、きっと海に浮かびますよ」
乗組員は楽観的だった。
いずれにしても浜に乗り上げることができたのだから、そこまで待ったらなんとかなるだろう、ということになった。
■門田隆将氏の疑惑(181)〜(185)
◆門田隆将氏の疑惑 その181
【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】59ページ
一同仕事がすんで、初めて其の島は何島かと云ふことが問題になって来た。島の上は見渡す限り蘇鐡ばかり、住民が居るのか、無人島か判らない。老船長に尋ねてみると、屋久島だと言ふ。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】104ページ
その時、初めてこの島は何島かということが問題になった。
島は、見渡すかぎりソテツの林である。果して住民がいるのか、無人島かもわからない。
老船長に尋ねてみると、おそらく屋久島だろう、と言う。
「蘇鐡」という難しい漢字を「ソテツ」に書き換えてはいますが、このブロックなどほとんどソックリそのままですよね。
◆門田隆将氏の疑惑 その182
【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】59ページ
するとTと云ふ沖繩人が「屋久島なら目下鹿兒島縣で開拓に着手して居り、北方には港も有る筈(はず)だから、其所へ往つて船をもう少し修繕して行くがよい。こんな應急手當(おうきゅうてあて)で果して航海が續(つづ)けられるか、どうかわからない」と言ひ出したので船が卸りたら北方に廻つて船を修繕することにきめた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】104ページ
照屋林蔚がそれを聞いて口を開いた。照屋は、プロジェクトに参加している唯一の沖縄人である。このあたりの事情には詳しい。
「屋久島なら、鹿児島県が開拓に着手しています。島の北方には港もあるはずです。そこまで行って、船をもう少し修繕して行く方がいいのではないか」
照屋は、一同の顔を見まわしてそう言った。そして、こうつけ加えた。
「こんな応急手当では、この先、航海が続けられるかどうかわかりませんよ」
照屋のひと言で方針は決まった。
◆門田隆将氏の疑惑 その183
【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】59ページ
午前十時頃船は幸ひに卸りたが水はやはり漏る。絶えず排水ポンプを動かして居ないと船は沈む。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】104ページ
朝十時。次第に上がってきた水位のおかげで船は海面に浮いた。しかし、応急処置の場所から、やはり水が漏ってきた。これでは、排水ポンプを絶えず動かしていないと船は沈んでしまう。猶予はない。
◆門田隆将氏の疑惑 その184
【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】59ページ
直ちに北方に向つて島をめぐり港を探した。航行一時間あまり、港は發見(はっけん)したが、船を修繕する設備も無く、人も居ない。上陸して探してみても、開拓事業は目下休業狀態だと言ふ。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】105ページ
船は、すぐに北方に向かった。島づたいに北上し、港を探した。一時間あまり経って、やっと港は発見された。やはりここが屋久島であることは間違いなかった。
だが、港に入っていっても人の姿が見えない。どうしたのか、と照屋が首をひねった。
鹿児島県がやっているという開拓事業は、あいにく休業中だった。そのため、人影がないのだ。もちろん、船を修繕する設備もなかった。
◆門田隆将氏の疑惑 その185
【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】59ページ
もはや仕方が無い。運を天に委せて沖縄の久米島まで直行しようと決定し、午後四時頃此所を出發(しゅっぱつ)した。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】105〜106ページ
一行は途方に暮れた。これからどうするか、話し合いが持たれた。付近の事情を最も知る照屋林蔚を中心に、さまざまな話が交わされた。
しかし、もはや仕方がなかった。あれこれ議論していても事態は好転しない。
結論はひとつしかない。もともと命など投げ出してやってきた自分たちではないか。ここは運を天にまかせて沖縄の久米島まで直行しよう――それは根本の意思でもあった。
(略)
よし行こう! 掛け声と共に老朽船・捷信號が屋久島をあとにしたのは、六月三十日午後四時頃のことである。
■門田隆将氏の疑惑(186)〜(190)
◆門田隆将氏の疑惑 その186
【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】59ページ
船は絶えず浸水するので、一時間おきに一行中の若い者四人と非番の船員二名、計六人で一人十分間づつ排水ポンプを押すことにきめた。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】106ページ
想像通りのつらい作業だった。必死の航行と不眠不休の排水作業が三日三晩つづいた。起きてはポンプを押し、また仮眠をとり、また起きてはポンプを押す。その繰り返しだった。根本らの励ましの中、排水作業は果てしなくつづいた。
◆門田隆将氏の疑惑 その187
【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】59ページ
七月三日の午後、船は久米島に着いた。防波堤の内にはいつて満潮を待つて船を淺い所に繋ぎ、干潮を利用して船底の検査や修繕の出來る様に準備してから、船主と李鉎源及び機關(きかん)長は油の補充の爲(た)めに上陸した。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】106〜107ページ
前方に久米島の島影が見えてきたのは、七月三日昼過ぎのことである。
やっとの思いで船が久米島の港の防波堤の中に入ってきたのは、その日の午後のことだった。
(略)
満潮を待って船を浅いところに繋ぎ、干潮を利用して船底の検査や修繕のできるように準備してから、李麒麟と李鉎源と機関長の三人が上陸した。
◆門田隆将氏の疑惑 その188
【根本博「蒋介石の軍事指南番」(「文藝春秋」1952年夏の増刊涼風読本)】59ページ
四日午前は干潮を利用して船員等は船の修繕をやり、船主や李は油を沖繩人に運ばせて來た。日本紙幣は通用しないので物物交換に據(よ)る外は無いのであるが、こちらには物資が無い。已(や)むなく各々の着換の洋服や帽子などを提供して油を補充した。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】107ページ
言うまでもなく、ここでは日本の紙幣は使えない。通用するのはドルである。
上陸した三人の目的は、食糧、水と油の補給だが、ドルがない以上、物々交換に頼るほかはない。しかし、その交換するべき物もなかった。
やむなく一行はそれぞれの着換えの洋服や帽子などを提供して、交換するべき〝物〟とした。油がなければ台湾本島に辿り着けないのだから必死だった。
各々の荷物から交換できそうなものはすべて提供された。
翌四日の朝、李麒麟と李鉎源は、地元民に無事、油を運ばせてきた。
◆門田隆将氏の疑惑 その189
【根本博「私は金門防衛日本人司令官だった」(「日本週報」1961年2月20日号)】7ページ
ここでは日本の円も、台湾の元(げん)も通用しない。着がえの服と交換して、やっとモビール【※註:油のこと】を手に入れ、あわただしく出港した。まごまごしていると食糧も足りなくなるのだ。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】107ページ
言うまでもなく、ここでは日本の紙幣は使えない。通用するのはドルである。
上陸した三人の目的は、食糧、水と油の補給だが、ドルがない以上、物々交換に頼るほかはない。しかし、その交換するべき物もなかった。
やむなく一行はそれぞれの着換えの洋服や帽子などを提供して、交換するべき〝物〟とした。油がなければ台湾本島に辿り着けないのだから必死だった。
太平洋戦争が終わったあとも、中国の国内では共産党と国民党による「国共内戦」の戦火が続きました。蒋介石が率いる国民党の側を支援するため、根本博中将は密航船に乗って台湾へ秘密裏に渡ります。苦難が打ち続く珍道中について、根本中将は手記に詳しく綴りました。門田隆将著『この命、義に捧ぐ』を読むと、その手記にソックリな記述がこれでもかと続くのです。
◆門田隆将氏の疑惑 その190
【根本博「私は金門防衛日本人司令官だった」(「日本週報」1961年2月20日号)】7ページ
だがそれも束の間で、十貫以上もあるキハダがかかると糸を切られ、またたく間に三本の糸を使いはたしてしまった。
【門田隆将『この命、義に捧ぐ』】111ページ
しかし、東シナ海のキハダマグロは、ゆうに十貫(およそ四十㌔)以上はある。根本の頼みの釣り糸がまたたく間に何本も切られてしまった。
* * *
ここまで、門田隆将著『この命、義に捧ぐ』をめぐる疑惑を20ブロックご紹介しました。続きは連載第10回でお伝えしますね。
(連載第10回へ続く/文中・一部敬称略)
※情報提供はコチラまで → kadotaryusho911@gmail.com
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