国語のテストの問題は理不尽である
小中高と国語の勉強をしてきたが、今更ながらに疑問に思うことがある。
まずは以下の国語の問題を解いて欲しい。
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以下の(A)に入る接続詞を3つの中から選びなさい。
彼はニンジンが好きだ。(A)、ピーマンは嫌いだ。
1:だから 2:しかし 3:なぜなら
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国語のテストなら特に難しい問題ではない。普通なら2の「しかし」を選ぶ。
文脈から考えてみたら逆接の単語が入るであろうし、実際国語のテストならこれで正解である。
しかし、本当にそれが正解なのであろうか。
よくよく考えてみると、文章というものは、何を書こうが書く人の自由である。
どんなに支離滅裂な文章であろうと、文法が間違っていようと、それを咎める権利は誰にもない。
「本棚はリンゴを食べても、だって天気が相撲にすぎない」という文章を書いて、読む人間にとっては意味不明でも、別にこういう文章なのだ、といえば、それでかまわない。
実際、詩なんかにはあえて意味の通らない文章を書いてることもあるだろう。
だから、先程の問題も『答は「しかし」でなく「だから」です』と私が主張しても何も問題はない。「彼はニンジンが好きだ。だから、ピーマンは嫌いだ。」変な文章である。変であるけれど、でも、そんな文章があったって別にいいはずである。
そう考えると、先程のような問題がテストで出たとき、何が正解なのか、いったい誰が答えられるのだろう。文章的には確かに「しかし」が入りそうだ。けれど、どんな言葉が入っても何も問題はないはずだ。答が「しかし」以外に存在しないと、いったい誰が言い切れようか。
つまりこういう問題には実は、「答が存在しない」もしくは「すべてが答になる」のである。
ところが、実際上記のような問題がテストに出たとき、「しかし」以外の答を書けば容赦なく「×」をつけられる。これは、もはや理不尽以外のなにものでもない。その回答に「×」をつける人間に、答が「しかし」でなければならない理由をぜひ教えて欲しいものである。
ただし、上記のような問題でも答えが明確な場合もある。それは、既存の文章から出題される場合だ。
国語のテストで出題されるのはたいがい誰かしらが書いた、小説なり、随筆なりの文章の一部が抜粋されたものだ。そして、文章の最後には必ずと言っていいほど、その文章がどこから引用されたものか、作者や作品名が書いてある。
で、そういう文章の中から先程のように「だから」なのか「しかし」なのかを問うような問題が出題される。
こうなってくると、確かに答は存在する。
なにせ、もともとの文章がちゃんとあるのだから。その元々の文章を調べてみれば、正解は分かる。そこにはっきり「しかし」と書かれていたら、「しかし」が正解なのである。
けれど、それはそれでまた別の問題が出てくる。
それは、問題の正解を導きだすにはその元になった文章を丸暗記している以外に方法はないということだ。
元の文章に書いてあることこそが正解だとしたら、当然その文章を知っていなければ答えようがない。
元の文章を知らなくても、文脈からここには「しかし」が入るだろう、という推測はできるかもしれないが、しかしそれはあくまで推測にすぎない。文章の流れ的にはそうであっても、作者がきまぐれに「だから」にしているかもしれない、それどころか「今日はいい天気だ」などと書いているかもしれない。そんなことは普通考えられないが、だからといって「ない」と言い切ることはその文章を知っている人以外、誰にもできないのである。
こうなってくると、問題に確実に正解するにはひたすら文章を丸暗記する以外なく、おまけにこの世にあふれ返る膨大な「文章」の中からどれが出題されるのか分からないのだから、もはや、問題に正解するのは絶望的である。というよりもそんな丸暗記するだけの学問は「国語力」とは全く無縁のものである。
こういうことは、他のタイプの設問にも言える。よくある、「下線部の言葉を漢字に直せ」、とか、「文章を並べ替えよ」、などもそうだ。「今日はてんきがいい」の「てんき」の漢字が「転機」でない保証などどこにもない。文章がどうなっているか、それは読んだ人間にしか分からない。
ましてや「この文章で作者が言いたかったことは何か?」のような設問に至っては、その文章を丸暗記していてすら、答えようがない。
「走れメロス」で作者が伝えたかったことは「友情の大切さ」である、と我々が思っても、そんなものは読み手の勝手な想像にすぎない。実際作者がどう思ってそれを書いたかなど、作者本人に聞く以外知る術はないのである。
昔、ジャンプ放送局というジャンプの巻末コーナーで、「作者の考えは何か?」の問いの下に芥川龍之介が「本を売って、印税で儲けたい。」と答えるというネタがあった。これなど、まさに絶妙な皮肉である。
ところが、国語の問題では、設問者の考える「答」のみが正解であり、それ以外の答を答案用紙に書けばすべて不正解にされる。走れメロスのテーマが「友情」である保証などどこにもない、と抗議しようと聞き入れてはもらえない。
なんとも理不尽である。
今回書いたことは言ってみれば「屁理屈」の一歩手前である。ニンジンが好き、のあとにピーマンが嫌い、なら「しかし」が入る・・、それを正解にしなければ、国語力を身につけるための学問は、成り立たない。
しかし、理屈の上では正解などどこにもない、そう考えるのも面白いであろう。
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