さらけだすこととコミュニティ
コルクには行動指針というのがあります。
このなかで、「さらけだす」という部分の質をどうやって高めていくかを考える、という話をコルクの会議で佐渡島が話していました。多分、コミュニティについて考えるときも、メンバーがお互いを知り、なにで貢献できるかを考えるために「さらけだす」という自己開示の質を高めることは重要だと思います。そんなことをちょっと考えてみました。
山本七平の『ある異常体験者の偏見』を読んでいると、フィリピンで日本軍が敗戦後にゲリラから攻撃を受けて大変な苦労をする話が出てきます。でもそのなかに、フィリピンのゲリラと交渉して、受け入れられ、ゆうゆうと帰国した人間もいたそうです。
その人の特徴はどうだったかと言うと「自分の生きる価値基準」を「相対化」できた人でした。日本人が「自分の生きる価値基準」を絶対的に正しいものとすれば、敵のことはまったく理解できない「鬼畜」とならざるを得ません。そういう状態での「自己開示」というのは、相手にとってのプロパガンダにしかなりません。
「自分の生きる価値基準」が絶対化していると、基準が違う他人との関係を築こうとすれば、「自分の基準」に拝跪させることしかできません。自分の基準と他人の基準との違いを理解して「相対化」し、相手の基準も分かる、でも自分はこうだという言葉を発したときに、相手は自分の「さらけだし」を理解するということなのではないでしょうか。
山本七平の話はここで終わっているのですが、実は、もうひとつのタイプの「さらけだし」が難しい人もいます。それは「自分の生きる価値基準」を見つけていない人です。実は意外にこの種の人は多いと感じています。
コルクでインターンしている東大生が、noteで「東大生が渋谷のマックで働いて身についたこと① −マーケティングとオペレーションの話−」を読んで、「負けた」ってつぶやいていました。実はその学生はとても読書家で、自分の興味のあるイベントにはこまめに顔を出しているし、noteを書いた学生とは別の種類の「マーケティング体験」をしているはずです。
だから、自分の体験をいったん相対化して、ゴロッとテーブルの上に投げ出して、他人にとって価値のある形式知に変換してあげればいいだけなんですが、「突発性記憶喪失」になり、自分の知識や経験を相対化できずに「負けた」とつぶやいてしまいます。
たぶん問題は2点あります。
ひとつは、自分の体験をメタ視点で再評価できていないことです。消費者としての自分の選択を深く反芻してみれば、それに価値が生まれないことはまずありえませんが、それを深く考える時間をとっていません。そして、ふたつ目の問題点は、メタ視点での再評価をしていないので、言語化もされないということです。
「さらけだし」には「自分の生きる価値基準」をしっかり持っていて、それを「言語化」できていることが必要です。相手のなかに「絶対」を見出すとき、自分のなかから何かを生み出すことはできなくなり、空っぽの空洞になります。なので、自分の経験・知識・それを統合した知恵を「相対化」し、お互いが理解できる言葉で伝え合うことが、「さらけだし」の質を高めることなのかなと思います。