「探求学習」はなんの練習?
うちは子供が3人いて、全員が中野にある東京コミュニティスクールに通っていた。僕は、そこで前校長のリキさんと出会って、人間として「なにかを面白がる」作法のようなものを深く考えさせられた。リキさんは不躾な言い方を許してもらえるなら「プロの素人」というような人で、いたるところに落ちている日常のなかから、面白い部分をゆっくりと見つけ出す達人だ。そんな達人が子供たちといっしょに学んでくれていることがとてもうれしく感じていた。そのリキさん(市川力さん)と学校の卒業生の対談を読んでいてハッとさせられた部分がある。
今は流行のようになっている「探求学習」というのを、2004年から実践している学校で、その教育の実践者が語る探求というのは、世間が思う「狭く深く」という探求の概念からはずいぶん外れているように感じないだろうか。僕が世間を眺めていて「探求学習」というときに目につくのは2つの要素で、ひとつはこの「狭く深く」というもの。もうひとつは「内発性」で、子供を誘導するのではなく、完全に自由に、自分でテーマを見つけるというのが重視されているように感じる。
実は、僕はこのふたつの要素は「探求学習」の本質とは別の話ではないかと思っている。
『メモの魔力』という本を書いた前田さんの話を、幻冬舎の編集の箕輪くんから聞いてなるほどと思ったことがある。
例えば、子供の「内発性」を重視するあまりにYouTubeやソシャゲなど、大人が「商売として」中毒になるように設計した、インスタントに「面白く」なれるコンテンツばかり受容してしまう。これが知的トレーニングとしての探求といえるだろうか。
また、写真が「正確に写し取る」という絵画のトレンドを変え、それと併せてチューブ絵の具が、光の変化を感じ取れる現場での作画を可能にして印象派を誕生させたように、AIなどの新技術が既存の仕事のあり方をどんどん変えていくことは容易に想像がつく中で、単に子供が偶然面白いと感じた一分野のみの「好奇心」を深くほっていくことが、「探求学習」の目指すところとも思えない。
絵を描く、音楽を作る、バレーボールをプレーする、フットボールの戦略を考える、小説を書くなど、面白くなるまでに時間がかかることはたくさんある。ましてや、膨大な先人がいて、自分発のクリエイションにたどり着くまでにはさらに時間がかかったりする。そしてそういうものほど、面白さが長く続き、終りが見えない。
そういう入り口に立って、いっしょに面白がってサポートしてくれる大人がどれだけ貴重かは、子供の自分が、何かを始めるときにどう感じたかを覚えている人ならわかるだろう。「内発性」などという矮小なものではなく、いいと思ったもののところには引っ張ってでも連れて行き、いっしょに同じ方向を見て、ともに歩き、「おもしろいかどうか」「好きか嫌いか」で真剣に議論してくれる大人がいること。
それが僕が考える探求学習。それは「知的好奇心を増やす練習」なんだと思う。そういう大人に僕はなりたいし、子供たちもそうなってほしい。
読んだり、観たりしたコンテンツについて書くことが多いです。なのでサポートより、リンクに飛んでそのコンテンツを楽しんでくれるのが一番うれしいです。でもサポートしてもらうのもうれしいです。