海底の花火
スマホの電源を切る。タオルケットを鼻まで覆う。左半身を溶かすように布団へと沈める。縋りつくようにネコのクッションを抱きしめる。
朝七時。横になったまま、日当たりの悪い部屋の窓から、黄色い世界を見つめる。
隣の部屋のドアが開く。足音がドタドタと鳴る。洗面台で水が流れる。ガチャガチャと何かを取る音がする。足音が階段を降りていく。雨戸が開けられる。歩き回る音がする。鍵を開ける。ドアにつけられた鐘が鳴る。鍵を閉める。ガレージを開ける。車が走っていく。
母が仕事へと出かける音を、起きていると気づかれないよう、微動だにせず聞く。
朝九時。一階のドアが開く。祖母が起きた。
テレビがつけられる。そこからしばらくテレビの音しか聞こえなくなる。電話が鳴る。話し声が聞こえる。電話が切られて少し経つと、インターホンが鳴り祖母がデイサービスに出かける。
それを聞き届け、ようやく起き上がり一日がはじまる。
日中、家には俺以外だれもいない。現在、母と祖母と三人暮らし。俺が四才の時に父が死に、一昨年、祖父が亡くなった。姉は一人いるが、今は牧師になるため神学校に行っている。
我が家はクリスチャンだ。母に連れられて、俺も生まれた頃から毎週教会に行っている……いや、行っていた。
教会に行き続けているうちに、教会での様々なことを手伝うようになっていた。しかし、俺は無断で行かなくなった。教会のみんなに何を言われているかとても怖い。迷惑をかけて申し訳ない。心配をかけて申し訳ない。でも、俺がいなくてもきっといつも通りできている……。
教会へ行かなくなり、どこにも行かなくなった。そして、家族ともなるべく関わらないようにしていた。出かけるまでは、部屋で物音を立てないようにしていて、出かけてから降りていってごはんを食べる。日中は自分の部屋で過ごすことが多い。その多くの時間を本を読んで時間をつぶす。五時に祖母が帰ってくるので、それ以降は部屋からは出ない。七時過ぎに、母が帰ってきて晩御飯をつくる。食卓には一応つくが、さっさと自分の分を食べて、すぐに自室に戻る。
「どうかしたのか?」と聞かれることが怖かった。話したくない。話すために自分と向き合いたくない。なのに、聞かれないことが寂しかった。
朝。電話の鳴る音で目を覚ました。きっと、祖母のデイサービスの電話だろう。できればもう少し時間が経ってから起きたかった……。
ドスン!!
一階から鈍い音が響いた。
一瞬、無視しようかという思いが頭に浮かんだが、それを拭い去るように起き上がる。部屋を出て階段を降りる。
「大丈夫!?」
ちょうど階段の下、リビングから廊下に出るドアのところで祖母が仰向けに倒れている。俺は急いで駆け寄る。
「大丈夫、大丈夫」
顔を歪ませながら言うその言葉が、大丈夫ではないことを物語っていた。
俺は救急車を呼び、母に連絡を入れる。そうしていると、インターホンが鳴り、デイサービスのスタッフがやってきた。俺は救急車を呼んだことを伝え、後は言われたことに従っていった。
救急車がやってきて、俺は付き添いで乗る。揺られながら、渡された紙に祖母の情報を書き込む。自分の祖母のことながら意外と知らないことが多いんだなと思う。
病院に到着すると正面玄関の横にある救急搬入口から中に入る。自動ドアを二つ抜け、救急患者用の待合室に通される。そこには長椅子が三列並べられ、男性が一人と夫婦と思われる男女が一組いた。俺は三列目の一番奥に座る。スマホを確認するが、母親からの返信はまだない。仕事中だろうから当然だろう。
胸の内で黒い何かがムクムクと膨れ上がる。
他の待っている夫婦が会話をする。看護師がパタパタと足音を立てて、通り過ぎる。遠くで何かを知らせる電子音が責め立てるように鳴っている。
いろんな音がまとわりついてきて、居心地が悪くなる。川を割る岩が胸の奥に詰まったような吐き気に襲われる。
「菅さーん」
祖母の名前が呼ばれ立ち上がる。診察室に通される。そこにはカルテを見ている、恰幅がよく、口髭が無造作に伸びた、熊がつく渾名を付けられそうな男性医師が立っていた。
「結論から言うと、腰のところの骨が折れていました。入院することになると思います」
医師は少し早口で話した。
「これからさらに詳しい検査をするので、待合室で待っていてください。
待合室に戻り、同じところに座る。
じわじわと浸水してくるように、再び吐き気がこみあげてくる。
……帰りたい………。
蠅のような会話がイヤだ。銃声のような足音がイヤだ。空調の唸り声がイヤだ。何もかも切り裂く電子音がイヤだ。
スマホにきた通知が溢れ出した思考の流れを止めた。
『今、病院に向かっています。お昼くらいに着きます』
現在午前十一時。母が来るまで早くても一時間……。
その一時間、入院のための手続きがいろいろとあって看護師に話しかけられたが、俺は「母が来てからで……」と言って何もしなかった。
祖母の為というのは分かっているが、何もかもがしんどかった。
祖母が入院してから一週間が経った。母との二人暮らしはとても快適だ。正確に言うと、母との二人暮らしになったことで、一人の時間が増えたので快適なのである。不謹慎だとは分かっているが、心のどこかに祖母の入院を喜んでいる自分がいる。
その日の夜。ほとんど唯一と言ってもいい母親と顔を合わせる機会である晩御飯の時だった。俺はいつも通りすぐに自分の分を食べ終わった時、
「あのさ……」
母が口を開いた。
口ごもった静寂と暗い声のトーンで言おうとしていることが予想がついた。
「あんた、これからどうするの?……その……ひきこもりみたいな……。」
「さぁ?どうするんだろうね?」
俺は懸命に興味のないような声を出す。そして、すぐに自室へと戻る。言われなくて寂しかった言葉がいざ目の前に来ると、何も出来なかった。
部屋に入り本を開いてみるが、読む気は起こらない。控えめに言われた“ひきこもり”という言葉が今の自分の客観的評価だった。
俺はゆっくりと目を閉じ、自分の過去を思い返していた。
俺は大学三年生で、心理学を学んでいる。臨床心理士の資格を取るために大学に入学した。カウンセリングをして、誰かの悩みを解決する手伝いをしたい。そう思ってこの資格を取ろうと思った。
こう思うようになったきっかけは、小学校の時のいじめられたという体験だ。
小学五年生の時、クラスの男子が少数派と多数派の二つに分かれた。多数派が少数派をいじめるという構図だった。
いじめるというのはトイレの個室に閉じ込めて上から水をかけるような派手なものではない。声が大きくて明るい人にたくさんの人間が集まって空気を支配する。コソコソと言っていた陰口が段々と大胆になっていく。いつの間にかクラスは彼らだけのものになっていた。
テレビでは見ることのない地味ないじめだが、テレビにはない心を蝕む力があった。
死ぬことを考えない日はなかった。道を歩いているとき、車が通るたびに自分の方へと突っ込んできて欲しかった。工事現場の下を通るときは、崩れた鉄パイプの下敷きになりたかった。しかし家のベランダに足をかけたときは、飛び降りることはできなかった。死にたいとは思っても、自殺する勇気なんてどこにもなかった。
その時は、母が学校に働きかけ先生も対応してくれた。クラスの雰囲気も変わり、学校に通えるようになった。
だから、教員になろうと思った。自分みたいに学校になじめず、辛い思いをする生徒を助けられるようになりたかった。
しかし、高校生で進路を考える時、教員では自分のしたいことはできないと思った。
授業の準備や生活指導、部活動の指導などをしていては、生徒に寄り添うことはできないと思い、カウンセラーになる道を選んだ。
「小さいころから親に連れられて教会に行っていました」
そこはとても楽しかった。遊んでくれる大人がいて、仲のいい友だちがいた。教えられたことも今の自分にも活きている。
小学六年生の時、教会で手伝いをするようになった。親も姉もしていたし、仲の良かった友だちもするようになってはじめた。最初は教会の中の掃除からはじまり、礼拝で必要なものの準備をしていく。日曜日の礼拝のために土曜日にも行って準備をする。平日は学校、土日は教会というのが基本的な一週間だった。
「大学三年生になった時にYoutubeをはじめました」
小六からはじめた手伝いも中高、大学になっても続けていた。
そして、大学三年生になった時、教会に来る人を増やしたくってYoutubeをはじめた。お笑いが好きで、教会のイベントでは何回もやらせてもらっていたので、メンバーを集めて、ネタの動画を撮って週に一本あげることをしはじめた。教会はまじめでいなきゃいけないみたいに思われていると思ったから、それだけじゃなくて楽しいところでもあるんだっていうことを伝えたかった。
平日の学校、土日の手伝いに加えて、ネタ作りに練習と撮影の日程調整、チームをまとめていくこと。次の日にやることを考えるとベッドに入っても眠れない日が続くようになった。
俺は自分の身体が軋む音を聞こえないようにしていた。
「その年の八月にさらに忙しくなりました」
教会では八月の夏休みのタイミングで、小学生や中高生、それぞれに向けたイベントをする。俺はそれらのイベントの企画や運営をすることになっていた。前から準備は進めていたが、八月に入り本番が近づき、大詰めで毎日毎日一時間かけて通った。
次第に身体を動かせなくなっていった。
どんなに疲れていても、眠気はやってこない。代わりに、次の日のタスクと心臓を締め付けるような吐き気がやってくる。何とか眠り迎えた朝は、ベッドから転がり落ちるように起き、足をひきずるように歩いた。肌に刺さる太陽の日射しに耐えられなくなり、いっそのこと、焼き尽くされて物言わぬ灰になりたかった。
「全部のイベントが終わった後には、外に出るだけで吐き気がするようになりました」
人に会うだけで、人がいるだけで、出すものは何もない吐き気に襲われる。毎日使っていた駅に行っても、ニンゲンがただ活動している音が、轟音をたてる濁流となって迫ってくる。耳から流れ込んで、肺を満たし、呼吸を奪う。
その濁流は、橋を流し去り道を破壊しつくし、俺を社会から切り離していった。
最後に残ったつながりは自らの手で断ち切った。
俺は目の前に座っているカウンセラーを名乗る女性に今までの経緯を話した。その女性は親身になっていることを示す表情を顔に貼り付けて、パソコンに俺が話したことを打ち込んでいた。タイピングの音がチクチクと肌を刺していた。
このカウンセリングルームには母親に連れてこられた。正直、遅すぎる助け舟だった。
「明日の16時から予約してるから、行ってね」
まるで海に放り出されるみたいに行くことになった。
自分のことを話すことで整理できた部分はあったように思うが、もうここには来ることはないだろうなと思っていた。
結局、二度目のカウンセリングには連絡を入れずに行かなかった。
「何かあったらちゃんと話してね」
俺の様子を見かねてなのか、母親に言われた。
母にはもちろん感謝している。母子家庭で、働きながら育ててくれたことは感謝しかない。しかし、自分のことを言う気にはなれなかった。
『親は子どもの為なら命だって捨てられます。だから、なんでも相談しましょう』
テレビやネット、本の中でも叫ばれているその正論は、俺には響かなかった。たかだか血のつながりだけで、なぜそこまで信頼できるのかが分からない。
保育園に通っている頃、俺は活発で人見知りな子どもだった。仲の良い友だちといるときはよくしゃべるが、慣れない人を前にすると人見知りしていた。
人形遊びが好きだった。一個百円でラムネ菓子が付いてくる指人形を買ってもらって、自分で物語を作って遊んでいた。
小学校に上がった時、人見知りの部分がどんどん強く出るようになった。学校という世界は“明るい子”が認められる世界で、とても窮屈だった。
家に帰っても親は仕事で帰りが遅く誰もいない。誰とも会話をすることなくテレビを見て過ごす。夕方のアニメ、ゴールデンタイムのバラエティ。どれも輝いて見えた。
母と姉と三人で買い物に行った時、母と姉が二人で楽しそうに話しながら歩いていく背中を見ながら歩いていた。わざとゆっくり歩いて距離をとっても、二人は気付くことなく歩きつづけた。
眠れない夜が続くようになった時、薬を飲んでも効かなかったので母に相談した。
「そういうこともあるよね。でも、すぐによくなるんじゃない?」
もう、自分には助け舟は来ないんだっていうことが分かった。
それから、数日後の教会の帰り道。母が運転する車に乗っていた。普段はあまり話すことは無いが、その日は俺の将来の話になった。その流れで母から言われた。
「あんたは昔から手がかからなくて本当に助かった」
えっ……という言葉は、のどにはり付き音になることはなかった。
手がかからなかったのではなく手をかけなかっただけだろう……。
信頼の岩はとっくに風化していて、最後の最後まで支えていたものは、その言葉で静かに崩れた。
カウンセリングに行った日から二か月が経過した。時の流れの持つ大きな力によって、俺は痛みを忘れ落ち着いて過ごしていた。
母と二人、いつも通り晩御飯を食べている。俺はテレビを見ながら食べていると、横目に郵便物を整理している母が映った。届いたものの中から就活情報誌を見つけると、数秒間それを見つめ、脇に置き、その上に新聞を重ねた。
食事を終え、自分の部屋に戻ってもその姿が頭から離れなかった。母親に自分のことを話す気にはなれない。しかし、気遣われているということは感じられた。
将来をどうしよう……?
冷気が頬をひっかく。冬はとっくにはじまっていたらしい。履きなれていたはずの靴と足並みが揃わない。久しぶりの外の世界は、どんよりとした青空が広がっていた。
駅に近づき、ニンゲンが増える。下校中の小学生の嗤い声。幽霊のように揺れる木々。通り過ぎるバイクの爆発音。時が流れてもこの濁流は存在しているみたいだ。耳から聞こえるポップロックサウンドが堤防となり、濁流をくい止める。
俺は踏み込んで歩く。まるで地球の重力が強くなったみたいに。
駅に入り改札を抜け、唸り声をあげる怪物に乗る。すぐに逃げられるようにドアの近くに立ち、じっと耐える。ドアが開くとすぐに降りて、怪物の巣から脱出する。この怪物を平然と乗りこなす勇者たちの間を抜けて歩く。
薄暗い階段を降りてある建物に入る。チケットを買って順番を待つ。お面のような笑顔で呼ばれ、鏡の前に座る。ニンゲンに話しかけられた後、イモムシを真っ二つに切り裂くような不快な音をさせながら髪を切られる拷問に耐える。
耐えきると、逃げるように帰路につく。
家に帰り、洗面台の鏡の前に立つ。
そこには、殺伐とした弱肉強食の世界から生還した、小さな村の英雄がいた。
髪を切った日から少しずつ外出をできるようになった。コンビニに行ったり本屋に行ったり、電車に乗って移動することも増えはじめた。
今日も出かける。お気に入りのTシャツを着て出発する。ドアを開けて吹き込んでくる刺すような寒さにも慣れた。地球の重力を感じることもなくなった。前を向いて歩いている。イヤホンから流れる音楽が守ってくれている。
音楽が一瞬止まる。
『Battery low』
機械的な女性の声が俺の思考を止める。
堤防にヒビが入る音が聞こえた。
再び音楽が流れるが、すぐに女性が言葉をぶつけてくる。ヒビがだんだんと広がってくる。
三回目に言われたあと、音楽が止まった。
堤防は決壊した。
濁流が流れ込んでくる。その濁流によって抑えていたフタが流された。今まで抑え込んできたものは、心臓から血流に乗って全身に巡りだした。膝から足に行き、腕から手に行き、首から脳に行って、俺は完全に支配された。
支配された俺は流れに流されるように歩きだした。
うす暗い路地裏まで流されてきた。死んだサンゴのように白いビルへ入る。自分の足音だけが響く階段を上る。錆びたドアを開け屋上に出る。見上げると青空に赤く染まった雲が浮いている。沈みかけの太陽を背にして淵に立つ。遠くからニンゲンの音が、小豆では到底再現できない本物の波の音のように聞こえる。
両手を広げ、両足で踏み切りダイブする。
灰色の海を落ちていく。
海底に花火が上がる。