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短編小説「立地」
私は前を走る白い軽自動車が右のウインカーを灯したのを確認し、それに倣い追従した。私はこの辺の土地にあまり明るくない。そのため、前を走る軽自動車との車間距離に注意はしているが、同時に間に他の車が入ってしまわないようにしなければならなかった。今向かっている目的地の住所が記載されている紙は私の隣———助手席のシートの上に雑に置いてあり、最悪はぐれてしまったとしてもその紙を確認し、車のナビを使えば到着することはできる。しかし、そんな手間は取りたくない。時間が惜しいのである。できることなら余計なことに時間を割きたくないのだ。
そんな気持ちで車を運転し10分ほどが経つと、(前を走る不動産屋さんが乗っている軽自動車、リアガラスに付いている花粉がすごいな)など、普段の運転では気にも留めないことに注意が向くようになっていた。どうやら少しばかり追従する運転にも慣れてきたようである。車を走らせる道路はいつの間にか2車線から1車線へと変わり、〝児童多し スピード落とせ〟と、書かれた黄色い看板が電柱に寄り添っているのが目に留まった。どうやら住宅街に入ったようである。
「このアパートはどうでしょうか?最寄り駅までは少し距離がありますが、自家用車をお持ちですのでそこまでご不便ではないかと。また、代わりと言っては何ですが、駐車場を出て右折し400mほど進むとすぐに国道に出ます。この利便性は大変魅力的です。更にここから徒歩で5分ほどの距離には、新しくコンビニができました。その点を考慮しましても、こちらのアパートの立地でこの金額の賃料はなかなかもう出てこないと思いますよ」と、白い軽自動車を運転していた恰幅のよく、狸の置物によく似た男性は私に対し快活に語った。空いている駐車スペースに並べて車を停めた我々は、筆洗に溶けた青い絵の具を思わせる晴天の下、車の脇に立っている。「内見はどうしますか?」「いや、ここはいいです。やはり私が求めている立地ではありません」と、私は狸の置物に対し冷たく答えた。狸の置物は首に巻きつくネクタイを少し緩めながら、目を垂らして、「了解です。では、次のアパートへご案内いたします」と、答えると白い軽自動車に乗り込んだ。
次に案内されたアパートの外壁は、熟れた南瓜の皮のような色合いであった。時刻は正午をまわり、春先とはいえ可愛げのない日差しが外壁をてらてらと輝かせていた。先ほどと同様に、私が空いている駐車スペースに車を停め外に出ると、先に駐車を済ませた狸の置物が近寄ってきた話はじめた。「このアパートはいかがでしょうか?空室となっている部屋は二階の角部屋です。それに築14年なので先ほどのアパートより築年数が10年も若いのも大変魅力的です。また、駅は徒歩10分ほどの距離にありますので、何かと便利でして———」「このアパートの途中、かなり急勾配な坂を車で通りましたが、駅からのここまでの徒歩も、あの道を通るのですか?」私は失礼を承知で狸の置物の言葉を遮り質問した。狸の置物は短く、「えーっと……」と言葉を詰まらせ、「今確認致しますね」とだけ言葉を残し、どたどたと白い軽自動車に戻っていった。残された私はスラックスのポケットから携帯を取り出し、地図アプリを起動させ立地の確認を行った。暫くすると狸の置物が左脇に黒いビジネスバックを抱え、右手にはクリップ留めされた10枚ほどの紙を持って現れた。そして、「すみません。確認したところ駅へのアクセスはあの道しかないそうですね。そうなると、距離的には近いのですが、スクーターか車でないと少し骨が折れるかも知れませんね」と、まるで今まさに自分があの急勾配な坂を登ってきたかのような、苦悶の表情を浮かべながら補足した。「そうか、スクーターか……。それは考えてなかったな。考慮しないとまずいよな……」私は狸の置物に聞こえないくらいの声で呟き、このアパートも内見する意思がないことを伝え、次のアパートへの案内を頼んだ。
それから新たに5つのアパートの立地を確認に行ったが、私の希望に沿うものは一つも見つからなかった。日は既に紅みを宿し、地平の隅に隠れる準備をはじめていた。そんな時間の経過の様な目に見えた進捗は我々には訪れず、どのアパートも内見をするには至らなかった。「次のアパートへの案内をお願いします」と、相変わらず私が冷たく言うので、狸の置物も少しばかり参ってきていた。
そして私が6つ目となるアパートの駐車場に到着し、車から降りると狸の置物は最早開き直っているかのような口調で話し始めた。「正直に申しますと、このアパートはあまりお勧めいたしません。駅までの距離は車で10分ほど、徒歩で行ける距離にコンビニもあるのですが、とにかく分かり辛いのです……」「分かり辛い?」私は無意識に狸の置物の言葉を反芻していた。「はい。分かり辛いのです。今我々の立っている駐車場の正面に見える、この白い外壁のアパートは今回ご案内するアパートではないのです。この白いアパートの道路を挟んで斜め向かいの茶色い壁面のアパートが今回紹介するアパートとなります」私は狸の置物が指さす方に目をやると、確かにそこには茶色い壁面のアパートが建っていた。「この白いアパートと向こうの茶色いアパートは少し前までは、別々の大家の物でした。しかし昨年、茶色いアパートが売りに出され、この白いアパートの大家が買い取ったのです。しかし、それには紆余曲折あり、茶色いアパートの駐車場の土地は買わなかったのです。そのため元からあった白いアパートの駐車場を少し整備し直し、駐車台数を茶色いアパートの分も増やしました。そのため、茶色いアパートの住民は、不便ですが駐車場から少し歩かないといけないのです」「茶色いアパートのもともとの駐車場はどうなったのですか?」私の疑問には狸の置物は答えず、まあ直接見てください。と短く答え先導し歩き始めた。
「これは驚いたな……」私は元駐車場であったらしい場所を見て、そんな素直な感想を述べた。見るとそこには、貨物列車で使用させるような形のコンテナが、まるでタイヤを外された車のようにきれいに駐車されていた。これでは他の車やスクーターが停まるスペースはない。「貸し倉庫となっています。そのため、アパートに住んでいない人間の往来もあるため人気がないのです。それに先ほどお話した、この場所が分かり辛い理由のひとつ目です。そして二つ目としまして、一応アパートの看板もあるのですが、この貸し倉庫の影となって役目を果たしておりません」狸の置物はそういうと歩き出し、貸し倉庫の裏に私を案内した。なるほど、確かに貸し倉庫の影に隠れ、せっかくの新品の倉庫も意味を成していなかった。
「そして、これが最後にして一番の問題なのですが……。実はこのアパート、今現在のナビでは検索候補に出てきません。このアパートの売却後、名称変更がされたのですが今現在は前のアパート名でのみ検索候補に出てきます。警察に名称変更届を行っているのは間違いありませんので、この問題はいずれ解決するとは思うのですが———」「是非、内見をさせてください」私は今日一番の笑顔で狸の置物に告げた。「え?」狸の置物は実にそれらしく目を丸く見開き、私の顔を眺めていた。
引っ越し当日、茶色いアパートの一室にて私は荷解きを行いながら、実に賢い選択をしたことに内心ほくそ笑んでいた。(そろそろ電話でも来るのではないか?) 私の内心を読み取ったのか、リビングのテーブルに置いていた携帯が鳴りだした。私は笑いださないように平静を装い、怒りを滲ませているような声で電話に出た。「はい。———いや、いつまで待たせるんですか?もう1時間近く待っているんですよ?———いいえ、違います。私のアパートは白い壁じゃありません。————もちろん看板もありますよ。———わかりました、外に出て待っています。———勿論です。チラシに書いてある通り、30分以内に配達していないので、代金はお支払いしませんよ!」私は電話を切ると、急いでアパートの外に出て宅配ピザを迎えに行くことにした。やはり私は天才である。この方法で他のピザ屋も当分の間は無料で食べ続けることができるのだから。
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