脳の彼岸:
發端
遠くの空は、もう微かに明るくなっているのが見える。虹も、かかりはじめているだろうか。そこに希望はあるんだろうか。胸に期待を抱きながらも布団の上から身を動かせずにいた。
「このままじゃダメだ、またヤツのペースにのまれてしまう。」
そうは思っても頭の中はグルグルと思考が飛んでは意思統一がされず照準が定まらない。波のように湧き上がって来る焦りを、どうしようもないとも思える、もはや諦めにも近い感覚。このドロドロとしたうねりを超えたら、また立ち上がれるのだろうか。僕はもうその答えを知っていた。
その時頭の真上のすぐそこで、パッと雨が跳ねる音がした。部屋にいるはずなのに。もうひとつぶ、ハッキリと。触れられるぐらいの距離に確かにそれはあるのを感じる。だが、しぶしぶ片目を開けてみても、それはない。
もう何度想起したか数えきれない。届きそうで届かない距離。
「これは何かプログラムにエラーが生じているな。」
直感が違和感を感じているのを自覚しつつ、もう一度目を閉じ、彼女のことを重ねた時、また雨の音がはじけた。
「今朝はどうしてコードが走るんだろう、今何時だ。」
そう思い出したように身体を起こし、歯を磨いて顔を洗う。いつまでも治りきらない肌がうだつの上がらなさを表しているようで、鏡を見るたびにイヤになった。
アラームが鳴ってようやく時間を認識した。
「まだようやくこんな時間か。」
身体の気怠さは抜けない。もう数日は入れていない風呂にでも入るかどうかと考えているうちに、また眠りのなかに落ちていった。
彼女はいつの間にか僕の脳の中に棲んでいた。いつからか。それはわからない。10年前のあの日かもしれない。今の彼女と僕の中にいる彼女とは、全く別の存在になってしまっているんだろう。最後に生身の空間が一致しているのはさらに4年も前だろうか。記憶が曖昧だ。
それほどに彼女とは会えてない。昔は少年のように笑う人だったのに。
「どうなってるんだよまったく。」
自分の身体の内にもあるはずなのに、まったく脳はおもしろい。だって死ぬまで見られないのに、そこに宿っているというのだから。
いつから当たり前のように人類の脳がNに侵襲されるようになったのか定かではない。ただ僕は気づいてしまった。生まれて8日目には既にNが埋め込まれていたということに。
「…らしくないぞ」と、そうゴーストが囁いた。
目を閉じたままウィンドウを開きディスプレイを展開。映像が視覚野を通じて溢れかえってくる。もちろんこれもきっとヤツが見せているものだ。人類がヤツらに飼われ始めてから半世紀すぎて、"世界"の意味は大きく変わってしまった。
今となっては言うまでもなく僕はヤツらにとっては家畜のようなものだが。
「…ネットのスイッチをオフ。」
それでも僕の脳は働くのを止めない。むしろ本来の、野生のヒトとしての脳だ。解放された喜びを感じたのも束の間、もう取り上げるようにネットの海へ接続したくなっている。彼女がそうさせているのか。もはや末那識レベルでは完全に支配されてしまっているのか。
「BBB防壁を起動。」
ひと呼吸、またひと呼吸と意識する。
これでようやく空間の中に自らの点を打つことができる。ヤツに教わったコードを参考にして、僕は開発をはじめた。
意識を集中させるのは最初のうち煩わしく思える。だが一度はじめて仕舞えばしばらくの間は、大丈夫だ。何も問題はない。ひとむかし前の人類は誰しもがそうやって生きていたらしい。コードに入っていける。深く呼吸を繰り返しているうちに、次第に鼻と口に以外の身体の感覚はなくなって、いつの間にか何もかもわからなくなっていた。
次に目を開けると、もう部屋はずいぶんと明るくなり始めていた。
突如、室内を照らす明かりが一層の輝きを増し視界を満たした。机の上には古びた本やノートが散らばり、壁には古びたポスターが貼り付けられている。部屋の片隅には数々のBCIが並び、その輝きだけが室内を照らし出している。
「くそだりいな、もうヤツらが来る!」
窓から差し込む光を浴びながら、ひとつ大きなため息をついた。未だ解決されていないコードはその行間と共に心に漂っているが、今はせめてひととき、忘れるしかないと思った。
急いで机に向かい、古びたコンピューターを起動した。画面には作りかけのプロジェクトやアイデアが並び、アテンションが奪われる。
「こんなところにもヤツらの仕掛けが潜んでんのかよ!」
数時間が経ち、没頭して、情熱が再び湧き上がるのを抑えた。今度こそ、これならいけるのではないかと思えるイデアをこの次元に実体を持たせるために書き始めた。鼻にかかるほどのかすかな活気を頼りに、希望をかき集めるように。
目を閉じ、深呼吸をする。これからヤツらと果てしない情報戦が待ち受けているだろう。水槽に浮かべられたままかもしれないが、立ち向かっていくしかない。
霞がかった山の頂上へ手を伸ばしながら、なんとかして見繕って、煙を拾い集めたような決意を固めた。
「ネットのスイッチをオン。」