駄菓子と料理人の彼
駄菓子屋の、思い出?そんなもん、ねえな。他を当たっとくれ。
何を隠そう、私は駄菓子屋の存在を知らずに育った。「駄菓子屋を知らない子どもたち」のひとりだ。私に欠けているもの、それは駄菓子屋で過ごした「あの頃」だ。
なぜかって?子どもの頃に体が弱いと両親から思われていた私はあまり出歩かせてもらわなかったこと、高知県の郡部という、親の車でないと買い物などに行きづらい環境に住んでいたこと、中学生になるまでお小遣いをもらっていなかったこと、それに加えて母親がエコ好きなタイプときて、子どものおやつには生協のお菓子と決めていたことなどが要因だろうね。言ってみれば「箱入り娘」さ。でもね、私自身にその環境を突き破るほどの社交性も冒険心もなかったってことだね。
その結果、私たちの子どもの頃のおやつは、母親が生協で注文してくれたシューアイスだったり、麦チョコだったり、みたらし団子だったり、チューチューアイスだったりした。フィッシュ&ナッツというのもよく食べた。私たちは、強烈な匂いとか色を発していない、やさしくて素朴な見た目と味のする“生協のお菓子”に育てられたってわけ。
それはほんとうに大袈裟ではなく、私の体と心を作っているなぁ、と思う。「つ」のつく年齢(9つ)までに食べた食べ物の人への染み込みようはほんとうに怖ろしい。
私は20代にさしかかるまで駄菓子屋を知らず、駄菓子と言えばスーパーなどに売られている安っぽいお菓子のこと、くらいに認識していた。そんな私に駄菓子屋の存在を教えたのは、19歳の大学1年生から約4年間を共に過ごした彼であった。
彼が私を連れて行ったのは、街の駄菓子屋さんではなくて、確か新横浜にあったラーメン博物館の中に特設された駄菓子屋横丁って感じの仮店舗だったように記憶する。彼はそのとき懐かしかったんだろうね、無邪気に懐かしの駄菓子を買い集め、大事そうに持ち帰って、家で一つ一つを愛おしむように味わった。
私はまず、人生で初めて見る「駄菓子」ってものにおののいた。なんじゃこれは。おもちゃみたいだし、ぎらぎらとして遠慮なく毒々しいし、それでいてレトロでなんかかわいいし。そいつを目の前でおいしそうに幸せそうに食べてる彼を見て、目が点になった。ナニソレ、オイシイノ?
私のそれまでの人生を総動員すると、「否」だ。そういう毒々しい食べ物が「おいしい」はずはなかった。でも、この彼は、それ以外の価値観の大部分を共有できる相手であった。だからこそ、4年間も一緒にいられたのだから。
食の好みでも、それまで特に食い違うことはなかった。お互いに地方から来た一人暮らしで、料理の腕も50歩100歩。初めは祖母から料理を習っていた私のほうが少し先輩で、米の研ぎ方も私が彼に教えたが、親たちの同意のもとで同棲してからは気がつくと8割がた彼がご飯を作ってくれていた。
20歳の時、私は全身の重症アトピーを患った。その時、親の勧めで入院した民間療法の病院の指導でかなり厳しい制限のある食生活を実行したのだけど、なんと彼が完全にその食事に付き合ってくれたことは今でも信じがたい。肉食がすべてNGだったので外食が難しく、ほぼ家で自炊して食べる生活に1年以上付き合ってくれたのだった。自分の分だけ肉を焼く、とかではなく、肉抜きの食事を一緒に作って食べた。彼は私に料理を作ってくれることが高じて、大学を辞めて料理人になっていった。
そんな人間的素地と味覚を持つ彼が、目の前で愛おしそうに食べる「駄菓子」ってやつが、私にはまさしくカルチャーショックだったのだ。
私は私の知らなかった「駄菓子屋さん」という世界に対し、喪失感を抱いた。幼きときの、強烈な個性と魅力を持つお菓子たちへの愛着、幼きときの、友との人間関係やコミュニティ、幼きときの、お金の使い方、幼きときの、もうひとつの居場所…。そして、その人の一部となり、人生を共にしていくそれらの思い出。それを私は持たないということが、人間関係への苦手さという劣等感とも重なって、かすかな痛みとして感じられた。
一方の彼は、両親から十分な愛情を注がれて育ったが、ある時期をカギっ子として過ごしていたため、駄菓子屋にも慣れ親しんだのだった。
私にとって異文化だった駄菓子屋とのふれあいは、そんな彼を通じてもたらされたため、喪失感と痛みは彼のやさしさによって溶かされていったように思う。
以上は、拝啓 あんこぼーろさんによる企画「あのころ駄菓子屋で」への参加記事でした。ふーぅ、ギリギリ。