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生産性とのたたかい

体調ひどいですが、大阪の漢方医まで来ました。医者に滅多に行かない人というのは、ただただ羨ましいですね…

たたかうのは苦手なのですが、ほかに言葉が見当たらないので、きょうは生産性とのたたかいについて…

『生産性』という言葉が世間を賑わしたのは、自民党の女性議員がこの言葉を使ってからでしょうか。女性の場合は、子供を産む・産まないが取り上げられることが多いと思いますが、男性は家族が養える『甲斐性』の有無でしょうか。

時代を映し出す新しい言葉、ある意味ネガティブな流行語のように扱われてきたようにも思うけれど、生産性は資本主義の根幹に関わることでもあるので、古くて新しいキーワードと言うほうがいいのかもしれません。

自分に引きつけて言えば、思春期の頃から自らの『生産性』を気にしていたように思います。小学生の頃、学校はまあまあ楽しかったですが、日曜日が楽しみ、いやもっと切実に『必要』でした。体が丈夫ではなかったし、体を休める日がほしかった。将来普通のサラリーマンになっても、小学生の学校生活より楽だとは思えなかったので、自分には務まりそうがないなあ、と不安に考え始めたのが高学年の頃だったと思います。

以来、現金収入のない今に至るまで、生産性のない自分の居場所をいかに見つけるか?というのが常に人生にのしかかることになりました。

体調が悪化したのが中三の頃、受験は地域の進学校を受験してクリアしましたが、入学してからついていくのが大変でさらに悪化、1年通って休学しました。1年後に復学はできたものの、休学した時点では、二度と高校には戻れない、中卒で生きていくんやな、でも体も弱くて手に職もないのにどうしようと病院の天井を眺めていたのが印象に残っています。

さいわい、稼いで一緒に暮らしてくれる女性と出会い、父親にまでなれたのは望外のことですが、いまでも引け目を感じます。

でも好きで病気になったり、体が虚弱なわけではないのに、どうして後ろめたい思いをして生きていかなければいけないのか?という疑問は常にあります。

いろんな部分を『測られる』ことで不幸になる人の方が多いと思うけれど、ますます人間や人生の計量の技術は進歩していくようですね。

生産性で人を量るなんて、これほど非人間的なふるまいがあるのか、という正論もある反面、今の社会の価値判断基準の多くが生産性に重きを置いているのも事実です。

自分のような者は、キャタピラーに押しつぶされないように生きていくしかないのでしょうか。軽やかにかわしていければ良いですが、体も心も弱ると身動きができなくなる。
弱いもの同士の連帯がますます必要になるのでしょうか。

50も過ぎて、よくここまできたなあ、というのと、どこまで行けるのかなあ、という気持ちがせめぎ合う日々です。

写真は地下街のお店。娘と同じ歳くらいのバイトの若い女性が、熱心に働いています。娘が大きくなってからは、街でこういう光景を目にすると、がんばれ、よくやってるね、と声をかけたくなります。

微力ながら彼女たちに幸せな将来を用意する大人になれればと思います。





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