共感するということ
年が明けました。昨秋からの体調不良が長引き、例年になく気持ちが片付かないまま年の瀬を迎えるなか、会員として活動のお手伝いをしている『韓国の原爆被害者を救援する市民の会』の会報発送作業に出向きました。
帰宅後、一緒に作業をした会長の市場淳子さんと松田素二さんご夫婦から、顔色のすぐれないぼくの体調を案じたメールがつれあいに届きました。ぼくは、つれあいの指導教官でもある松田さんへ、自分の最近の体調を綴ったメールをお気遣いへのお礼も兼ねて書きました。すると、すぐにまた松田さんからぼくへのメールが届きました。一部を紹介します。
『…私の体調の方は加齢とともに、昔のように全快のような状態はなくなり、どこかがおかしいのが常態になってきているような気がします。トミーはこういう状況をずっと経験してきたのだと思うと、結構なストレスに耐えてきたことに感動します。そうした状況のおかげで周囲もまた自分を変えていくことができるのでしょうから、私たちも含めてトミーへの感謝ですね。』
松田さんらしいなあ、とにんまりしながら読みました(文中『トミー』は松田さんがぼくを呼ぶときのニックネームです)。
ぼくは、同情されるのは嫌いではないし、ありがたいことだとも思います。無関心よりずっといいと思う。ただ、同情にとどまるのではなくて、相手の窮状を自分の問題として考え、さらにはもっと視線を引いて(俯瞰という言葉はあまり好きではありません)大きな文脈で考えてみることも大事だと思います。そうすることで、そのような姿勢・考え方そのものが目の前の相手のみならず、その周りの人々にも伝わっていく。今回のメールで言えば、ぼくのような人間に存在する価値があるのかなあ、という日々の疑問への応答にもなっている。人類学のすぐれたフィールドワーカーである松田さんにとってはなんでもないメッセージだと思うのですが、松田さんからのメールを読んで、他者に共感するというのは本来はこういうことなのかな、と思いました。
SNS全盛のいまの世は共感の時代とも言われているようです。お互いにディスプレイでいいね!することこそが『共感』で、いいね!の数で『共感力』を査定するかのような流れは健全なコミュニケーションとは言えないですね。ただ、だからといって、共感することそのものまで疎んじる必要はないと思います。ネット上の繋がりを共感と呼ぶのも自由ですが、ぼくが松田さんにもらったメッセージに込められたような思いをもとに他者に共感するのは、それ相応の胆力がいるのではないかと思います。
以前、ぼくが尊敬する小児科医である細谷亮太先生が、ご自身のエッセイで患者に共感することの大切さを書いておられたのも印象に残っています。小児がん専門医として、今は8割がた治すことができるこの病気が、まだほとんど治る見込みのない時代から小さな患者と伴走してきた細谷先生が、治すことができず、幼くして親より先に逝かねばならない子供たちに、少しでもよりよい生き方ができるよう願って抱いてきた共感は、誰にでも簡単にできるものではないと思います。
共感する力は他人と比較したり、性格の良し悪しの判断の基準にするものではないでしょう。たとえ不器用でも、弱っている相手に一歩踏み込んでみようか、という気持ちそのものが大事であると信じたいです。
こんなふうに考えると、共感するって実はとっても面倒くさいですね。
前の投稿から間があいてしまいましたが、今年もよろしくお願いします。