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生成AIとオリジナリティ

生成AIが得意とするのは、中央値の回答だと言われています。
ぶっちゃけ、誰が、どのくらいの人数が言っているかは知らんけど、そんな言説をよく目にします。

使ってみた実感としては、まさにその通りで、ビジネス系の質問をすると、ビジネス書に書いてあるような王道の回答が返されます。

突拍子もない斜め上の回答がくることはまずありません。

となると、安っぽい表現をすれば、生成AIの回答ってオリジナリティがないよね。となるわけです。

私がこれまでnoteに書いてきた文章は、すべて自力で書いたものです。オリジナリティの塊です。

証拠は提示するまでもありません。

読めばわかります。

もし生成AIの力を借りていたら、あれほどまでにペラッペラの内容にはならないでしょう。

私が書いた文章をchatGPTに貼り付けて添削をお願いすると、元の文章の3倍くらいの添削結果が返ってきます。

しかも、どれも有益なアドバイスで、それに従えば私の文章にも品格らしきものが宿るに違いないと感じさせられました。

しかし一方で、そのアドバイスに従って文章を修正すると、どこかのビジネス書作家が書きそうな文章になるな~とも感じます。

オリジナリティが消えるわけです。

しかし、しかしですよ。

chatGPTがコテンパンに指摘してくれるくらい中身の薄い私の記事をもって、果たして「オリジナリティ」を語れるのだろうかと、そういう疑問も芽生えてきます。

「中身の薄さ、思考の軽薄さが……俺のオリジナリティなのか?」

決して開けてはならない箱の中身を隙間から覗いたような、知らないほうが幸せだったことを知ってしまったときのような、なんかそういうアレです。

ね。

ジョン・メイナード・ケインズの言葉を、私流に改編すれば

自分の文章はオリジナリティに溢れていると主張するnote作家の文章は、誰からも読まれず淘汰された三流作家の作風と同じであることが多い。

ということが言えるんじゃないかということです。

オリジナリティではなく、ただ三流、四流、五流だっただけというのは、とても切ないものがあります。

タイプライターに筆で書いちゃうなんて、おっちょこちょいなんだから。

だがそこがいい。

中身の薄い三流の文章を投稿し続ける人生、ステキじゃありませんか。

今後もなるべく中身のない投稿を続けます。

有益にならないように気を付けます。

期待値のハードルは、地下3mところに設定してお読みください。

むしろ、読まないのもアリです。

ほな。


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