異語り 126 顔ナシ
コトガタリ 126 カオナシ
30代 女性 松井さん(仮)
「人の顔が見えないんです」
そう言いながらふわりと顔を上げた松井さんは、そのまま私の輪郭をなぞるように視点をさまよわせ再び手元のカップを見つめた。
「顔が見れないのではなくて?」
「あー、そうなのかもしれません。相手も見分けられているのですから見えないよりは見れないが正しいのかも……」
松井さんはそう話しながらも何度か目線を上げていたけれど、その視線が私の首元より上を見ることはなかった。
「でもやっぱり見えないんです。何か混ざってしまうような、ぐちゃぐちゃとした印象になってしまってよく見えなくなってしまうので」
細く小さなため息をつくと、私の手元に向かって苦笑いを浮かべた。
「昔からこうだった訳ではないんです」
松井さんの話は誰にでもありそうな、ごく普通の旅行の話だった。
友人と北陸地方の観光地を訪れた際、現地の史跡巡りのミニツアーに参加することにした。
お昼に集合してバスであちこち回り、夕方には解散する。数時間だけのバスツアーだ。
戦国時代の武将ゆかりの土地や、明治期の産業遺産など。
時代に囚われないバラエティ溢れる組み合わせで、とても充実したツアーだと思った。
そんな中、伝承の残る寺を見学した時の話。
境内に作られた小さな人工池に妙に心惹かれたという。
白砂に飛び石が並んだ先に綺麗な円形の池。
縁は磨かれた御影石で囲まれ、池の中には少しばかり蓮の葉が浮かんでいた。
水中には小さな魚の姿も見えたらが、水面は驚くほど静か。
遠くから見るとそこに丸い空が落ちているように見えたそうだ。
寺の中は自由に見学しても良かったので、松井さんは他のツアー客から離れ、池の方へと足を向けた。
『鏡池』
確かそんな札が立っていたように思う。
が、あまりよく覚えていない。
ふらふらと池に近づき、その縁にしゃがみ込むとそっと中を覗いた。
澄んだ水と水底の白砂。
写る空とそれにかぶさるように空を塞ぐ自分の顔が見えた。
しばらくぼーっと覗いていたんだと思う。
「何かあった?」
声と同時に水面がぽつぽつと乱れた。
一緒に参加していた友人が声をかけてきたのだ。
少し探したらしく、ちょっと小走りで寄ってきたもんだから池の側の砂利を蹴り入れてしまったらしい。
あんなにくっきりと映っていた水面がゆらゆらと揺れ、なかなか元に戻らなくなった。
「すごく綺麗だったのよ」
かき消されてしまった自分の輪郭を眺めながら振り向くと、友人の顔もなんだかゆがんでいるように見えた。
「多分あれからなんです」
その日はその時だけだったが、翌日から少しずつ少しずつ人の顔が歪むようになったという。
「チラリと見るくらいなら平気なんですけど、ちゃんと見ようとするともうだめですね」
どうやら写真は平気らしい。
なので、人の顔は写真に撮って確認すると言う。
「それ以外の実害はないので放っておいてるんです」
「せっかくなので一緒に一枚いいですか?」
松井さんは馴れた様子でツーショットの自撮りをするとニッコリと笑って帰っていった。