第99回 受容
親の怒りが頂点に達すると、当たり前ですが、子どもの反抗も頂点に達します。
子は、親が自分のことを理解してくれない、助けてくれないと言って暴れ出します。
親は、子が自分のことを理解してくれない、助けてくれないと言って手を上げます。
すると、会話はますます無くなり、子どもは完全に部屋へ引きこもってしまい出てこなくなります。
因みに、この暴れることが自分に向かうと自傷行為、家族に向かうと家庭内暴力になるそうです。
こうなると、家庭内で会話も無くなり、殺伐とした空気だけが漂います。
すると親の怒りは、自分の無力さを知らしめられることで、徐々に虚しさへと変化していきます。
こんな状況になって、その親御さんは、藁にも縋る思いで、「引きこもりの子を持つ親の会」、つまり当事者組織に参加したということでした。
誰かに自分の苦しみを理解して欲しい、出来れば打開して欲しいと思っていたらしいです。
そこで教えられたのは、親御さんが思っていたことと正反対の内容でした。
それは、親御さんである自分自身が変わらないとダメだということだったからです。
また、子どもを信じて待つことが重要だとも言われました。
当然、親御さんは、その意見を聞き流します。
自分は、親として至極真っ当なことを言っているだけで、変わるべきは子どもの方だと考えていたからです。
また、赤の他人だからそういうことが言えるのであって、待っているだけで良くならなかったらどうすると思っていたからです。
ただ、この親御さんの良かったところは、多少の反発心を抱えつつも、当事者の会に参加し続けたことでした。
親御さんが言うには、参加し続けられたのは、今の子どもの状況を話すことが出来ただけで、ちょっと気分が楽になったからということでした。
- 自分の為に参加していたんです -
今はそう言っておられます。
しかし、状況は一向に改善しません。
子どもの引きこもりは、小学6年生の夏休みから始まり、中学1年生、2年生、3年生と続いていきました。
結果的には、中学時代は、一度も登校しなかったということでした。
ただ、休み続けた中で、徐々に子どもの中にも、変化が出てくるようになったということです。
ある時、親御さんは、当事者の会で、親御さん自身が変わったと言われるようになりました。
中学校を1度も行かずに卒業していることから、学力は小学生のままなので、完全にレールから外れた、ある意味、諦めの境地にも、達観したとも言えるような状況になったということでした。
子どもの人生だから、生きていてくれるだけで十分と考えるようになり、そうなると子どもに寄り添えるようになったということでした。
これが、受容と言われる状態です。
全てをあるがままに受け入れると言う、心の持ちようの種類では究極進化系の状況です。
実は、この受容という考え方は、「risk management」にも存在します。
地震でも、洪水でもなんでも良いのですが、あるトラブルから発生する「risk」に対して、「hedge」するか、しないかの選択で、しないの選択が受容となる訳です。
「risk」に対して「hedge」しないのは、その「risk」の発生確率が低いか、「hedge」に多額のコストがかかるからです。
例えば、地球には、絶えず隕石が降り注いでいます。
小さい隕石なら、日本でも結構見つかっています。
この隕石に当たって死ぬのは嫌だから、当たらないように「hedge」と考えて生きている人はいないでしょう。
また、元旦の「令和6年能登半島地震」でも明らかになったように、やはり地震は恐ろしいです。
できれば、倒壊しない家に住みたいと誰もが思います。
ところが、建て直しには3,000万円かかると言われると、まず建て直さないでしょう。
地震対策に3,000万円遣うくらいなら、他のことに3,000万円遣う方が有意義だと考えるからです。
結果的に、「隕石に当たったら仕方ない。」、「地震が起きたら仕方ない」と考えに至る訳で、これを受容と言います。
そもそも親御さんが、子どもを早く人生のレールに戻したいと考えていたのは、外れることが「risk」だと考えていたからです。
ところが、現実にレールから外れるという問題が起こってしまったことで、親御さんの心は次の段階へと進んだ訳です。
この時に、レールから外れることは、「risk」と言えるほどの問題では無いと気づけたということです。
先ほど、諦めの境地と書きましたが、実は諦めるのとは違います。
受け入れるというのは、諦めるのではなく、今の状況を確認し、次に繋げようと言う意思が無ければなりません。
諦めていては、次に繋がることはありませんから、この点が大きく違う訳です。
一つの「risk」が「hedge」できずに現実のものとなり、そこからの回復を考えるようになった訳です。
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