談志師匠の命日に想う事・・・
11月21日、立川談志師匠の命日。
あれから11年経つのかぁ・・・早いなぁ。
落語を好きになったきっかけが、30年ほど前の「笑点」の演芸コーナー。たまたま観た落語に興味を持ったことだった。すぐさま田舎町のレコード屋さんで買い求めた落語のテープの一つが、立川談志師匠のテープだった。「鼠穴」と「天災」が入っていたと思う。「何だ!?これは??」という衝撃でソワソワし、まさに擦り切れるほど何度もテープを聞いた記憶がある。そして、インターネットもほとんど普及していない時代に、その落語家さんが、今度いつ自分の地元に来るのかを調べては落語会に通っていた。それが、30年以上前の、僕の中学、高校時代の話だ。(後から本人から聞いた話で分かったのだが、僕の地元は立川談志師匠に縁のある地で、割とよく来ていたらしい)
談志師匠は、世間で通っているイメージとは違って、僕のような若いファンにはかなり優しかった。だから、様々なエピソードがある。公演の終演後、僕に「どうだった?」と落語の感想を聞き、その日演った落語の解説をしてくれたり、「あれ、読んだか?」と雑誌に連載していたものや、書籍の文章の解説などを丁寧にしてくれた。時には、迎えのタクシーを待たせて、僕と話し込んだりもしていた。
印象的なエピソードとしては、ある時、師匠にこんな事を言われたことがある。「お前は、学校出たら俺のところへ来い。」「え?」という顔で固まる僕に、「俺の事がそんなに好きって事は、どうせ世間とは上手くやっていけねぇぞ!」と言って照れたような笑顔で名刺を渡してくれた。今から考えれば一流の芸人さんの最高のヨイショ!だったと思う。でも、僕が、その言葉で、より一層大ファンになった事は間違いない。あれから30年以上経って、あの時の青年は、師匠の言葉通り、全く世間とは上手くやっていけない不器用の見本みたいな男になっている。そして、その言葉の意味を痛いほど味わっている。それでも、なんとか放送作家という仕事をし、笑いの世界の端くれには居れている。今では、談志師匠の言葉は、自慢のような自信のような言い訳のような拠り所のような・・・そんな言葉として僕を支え続けてくれているのだが・・・。
「立川談志」という人は、好きでいる人それぞれに、様々な形で強烈な影響を与えてくれた方だと思う。亡くなられてから、談志師匠とのエピソードはあまり語るのはよそうと思っていたが、11年の年月が経って、その存在感が薄れていくのは哀しいので、ファン目線からでも、在りし日の姿や思い出を語って行くのいいんじゃないかと思い、これから気が向いた時に書いていこうかと思う。
談志師匠を好きでいる事で繋がったり、広がっていく縁もある。
今年の11月21日は、『もしかして談志師匠が導いてくれたのでは?』と思えるような再会もあった。
僕は、これからも、談志師匠を思い出し、常に師匠に感謝しながら生きていくんだろうな。