【かぼすの軌跡】12月/自分らしく
鬱、自律神経失調症、解離性性同一性障害、拒食症、自閉スペクトラム症(ASD)
これらを目や耳にしたことがあるだろうか。
最近ではニュースや特集で組まれて目にする機会が増えたように感じる。
私はあくまでも“そうだと思う=仮定”である。
こう言ってしまうと本当に診断されてる人が可哀想、ただの理由をつけた仮病と思われるかも知れない。しかしこれがかぼすの“仮定”となる。
今月久しぶりに◯んでしまおう、と感じた。
特に原因はない、静かに消えて誰にも気付かれないように。
ただ、2年前から12月は体調が悪くなるようになった。理由は人の死。
中学生頃から鬱だったり自律神経失調症だったり、統合失調症だったりと何かしらの不安を抱えながら生きていた。当時はすでにネット環境が身近にあったことから自分の症状を調べていた。つまり、診断書をもらったことはこれまでに一度もない。
時すでに高校の頃に一度、大学の2年~3年頃解離性性同一性障害になっている。
最初は自分以外のキャラクターを作ることで生きていたものの、気付けば“自分”という人物がいなくなり記憶がなくなる日々が続いた。特に高校に関しては卒業しているので通ってたのは確かだが、殆どの記憶がない。
大学も複雑な人間関係に陥り“自分”を見失った。
その時の人格数は5人。今は3人に減るものの時々解離は起こる。
特に夜、これと言った人格になることは減ったものの寝てる時に突然目が覚めて手を見つめるものの自分の手でないように感じ「これは誰の手だ」と恐怖に陥る。
これは正直、信じ難いと思う。なったことのある人にしかわからない感覚だと思うから。
そして今月、上旬は鬱に、時々解離しつつ、食欲のない日が続いた。
中旬、下旬と楽にはなったものの治ったわけではない。
ただ自分の好きなことに楽しんで向き合うことができた。
だから、治ったと身体は勘違いしている。
今月のテーマを“自分らしく”にしたのには理由がある。
結論は“難しく生きすぎた”
これまで専門生になるにあたって表題を大人びたものにしていた。しかし、それが重しになり自分自身を枠の中に閉じ込めていた。もちろん専門生になったことで外部からの刺激やこれまで知らなかった場所や音楽に自ら飛び込んで“知る”機会はたくさん得た。
ただ常にあれこれ先のことまで考えていたせいか自分の楽しみを見失いつつ次第に生きる希望を見失った。
何事にも縛られず一旦noteのことを忘れて自分らしく生きることをテーマにした結果が今回の更新となった。
いつもであればテーマに沿って話を進めるものの日記のようなテーマ発表のような何もなく文字が続く形式にしたのはそのためだ。
一度いつも考えているものを取っ払って、自分らしく纏めようとすればどうなるのか、締めくくりにちょうどいい投稿が出来るのではないか。
今回はあえて、表題もつけなければ太字も入れないそんな作品になったのではないだろうか。
あと一つ、今回これを書くにあたってまだ出てきていない言葉が一つ。
それが、自閉スペクトラム症(ASD)だ。これは自分自身が懸念している障害。
きょうだいがADHDだろうと、これも一つの仮定になる。理由は幼少期にその言葉を親が知る機会がなかったから、普通の子なんだけど少し変わった子、不思議ちゃんとして育てた。と今になってよく聞くようになった。
きょうだいが障害だろうと自分が障害だろうと親を憎んではいない。なんか変な個性があるんだなと。それだけ。
私自身がASDだと感じる理由は生活面にある。
物の位置は同じ場所にないと気持ちが悪い(お皿、冷蔵庫の中、机の上)、入浴剤がバラバラに並んでいると色順に種類順に並べる、決まったルーティンがあり崩されるのが嫌(特に朝)、言葉が苦手で文字が好きだったり、ただ読書とかの読み物はちょっと苦手だったり、決められた仕事(ループ作業的な物)が得意、など。
ただそれが理解されるとすっごい過ごしやすいなって感じている。
数々の精神疾患の中で生きていく日が続くのかと思うと嫌になるがそれが個性だと噛み砕ける日がいつか来ると信じて、自分の好きを心から楽しめる日々を常にそばに置いてこれからも2025年も過ごしていこうと思います。
それでは読者の皆様、良いお年を。