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Celebration of Humanity -The Greatest Showman-

エンターテイメントとは、眩しく、輝かしく、楽しく、人々を魅了するものだ。特に"ショー"の形態をとっているものは、空想的で非現実的で日常そしてリアルから浮いた時間を提供するエンタメである、と少なくとも私は思っている。しかし、それは嫉妬、羨望、そのほか色々なドブのようにドロドロしたものが根底に渦巻いている。そういうことを、この映画はエンタメの側からエンタメの言ってしまえば闇の部分を提示しているように見えた。

ショーのオーナーであるバーナムは下流階級の出身だ。貧乏な家に生まれ父と暮らし早くに亡くし路上生活を送る、盗みをしなければ飢えてしまう程度には。鉄道ができ大量人材確保の波に乗って仕事を得て、彼はようやく人並みの生活を送れるようになりやがてショービジネスを起こす。「センセーショナル=奇妙」をテーマに人を集めショーを作る。舞台となるNYにおいてマイノリティーである人々をベースに、少しの誇張と嘘を散りばめて。新聞の酷評はごもっともだ。下品、騒がしい。それはバーナムも自覚している、下流を集めて下流自身が作っているものだ。やがて、フィリップのツテでリンドと出会う。"上流"を形にしたようなリンドを使い自らも上流を目指す。折れて帰ってきたところでショーの演者たちと歌うパートがある。印象的なのは「光に目がくらまないように」という歌詞。彼にとって、上流階級が扱う「歌」「オペラ」は光だったのだ。スポットライトを浴びて、カメラのフラッシュを浴びて、数々の光を浴びる。そういう下流の人間がいやがおうにも嫉妬し憧れ囚われてしまうものを、光に目がくらむ、と言う。そう表現する彼は、きっとこの先も同じ鉄を踏むのだろうと思うのだ。下品だっていいじゃないか、空想的な空間は、夢のようで、日常を忘れ、人々の笑顔を作る。サーカスも光溢れるステージじゃないか。そう思うのに、そう思わされたのに、最後まで彼はそう表現をしなかった。きっと、彼の根底にはいつまでも自身が下流層出身である劣等感が生き続けるんだろう。

そういったショービジネスを創り出す側には、表向きには見えない泥のようなものが消えずへばりついている。そういう一面を、見る側も忘れ去ってはいけないのだと思う、歴史は歴史だ。

ただ、そんな風に利用されたとしても、ステージは素晴らしいものなのだ。

Celebration of Humanity

サーカスのステージに立てば、誰もが平等に歌い踊る。人種も容姿も性別も些細なことになる。もちろん傍から見れば見世物小屋であることに変わりないだろう。でも、少なくとも映像の世界の中では、彼らは彼ら自身を表現する場を与えられ観客から存在を認められ光を浴びるのだ。見掛けに笑い者もいるだろう、でも、人間の力強さに手をたたき声をあげ歓声を送る者もいるはずだ。

光あれば闇もある、闇もあれば光もある。それは表裏一体であること、世の真理だろう。ただそれだけのことだ。

私たちが今の時代に様々なエンターテイメントを享受出来ている過去には人間のどろどろした感情が傲慢さがある。けれど、それを光へと未来へと進めていったのもまた人間である。

「何かセンセーショナルなものが必要だわ」

ショービジネスは世間があっと驚くようなものでなくてはならないのだ。