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【エッセイ】不死は嫌でも、不老ならなりたい

散々語られ尽くしてきたテーマ「不老不死」
これを語る上で外せないのは手塚治虫『火の鳥』である。私は一通り読んでいる。(文庫版のみで、バージョン違いは把握しきれていない)

あれを読むと軽々しく「不老不死になりて〜」なんて言えなくなるものだが、それでも「不老」だけならいいんじゃあないかと思う。どんなに苦しい思いをしても「死が選べない」のは残酷だ。例えばエキノコックスや狂犬病は治療法がなく、症状が出たらもう手の施しようがないらしい。治療法がないのでせめて早く苦しみを終わらせるしかない。恐ろしすぎる。
そうした外的要因は致し方ないが、老化による苦しみが減るだけでもかなり楽になりそうだな、なんて安易な考えだ。

とはいえ老化は死を受け入れる準備でもあるのかな、と思う。
今は平均寿命が伸びていることもあって、訃報に対して「まだ若いのに」と言われる範囲が広くなった。歳をとっていようが訃報が悲しいことに変わりはないが、自分も周りも、受け入れやすくなる気はする。
少なくとも自分自身に対しては、10代の頃と、齢30を超えた今とでは違う。まだまだ生きていたいが、もう十分生きてきたんじゃあないか? と死神に問われたら、返答に窮してしまうそうなのだ。
心で死をどう受け止めていようと、実際の生死に関わりはないのだが。


そんな答えの出ない問いをぐるぐる考えてしまうが、こういうことは外に出すとやっぱり気持ちがスッキリする。
昨日の記事も投稿したあと心が軽くなったのか、眠気と食欲が同時に来た。体が生きようとしている。


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