タカさんと龍と初代ガメラ
訳ありの居候が多い家だった。
一人目は物心がついた頃だから、3つか4つの時?
男の子がうちに住んでいた。当時もう高校生くらいだったろうか。背の高い(当時の言葉でいうと)とっぽい兄ちゃんだった。
染め髪にパーマをあてたリーゼント、ピアスにスカジャン、広い肩に細い腰、長い脚にジーンズ。80年代のハンサムボーイ。
俺は「にいにい(兄々)」と呼んでいた(当然、血の繋がりはない)。
すっかりセピア色、それもモヤが盛大にかかっているがファミコン(おそらく初代マリオブラザーズ)で一緒に遊んでくれた記憶がある。
見た目とは裏腹に物静かでどこかナイーブな印象がある青年だった。
「彼の父親が失踪したため(この父親は占い師をやっていたという。俺の名前を決めたのはこの男だ)、うちの母が引き取って育てることにした」という経緯を大人になってから聞いた(なんだそりゃ)。
また中学、高校にかけてヤマちゃん(仮名、当時推定40代)、クドウちゃん(仮名、当時推定50代)なる遊び人がそれぞれある時期、年単位でうちに居候していた(ここでは詳細を省くが彼らについてもいつか書くかもしれない)。
最後に居候がいたのは二十歳の時だったと思う。俺は実家で暮らしていたが両親と祖母の他に同居人が二人いた。
これは同居人としては事情も人種も変わり種で少し柔らかい言葉を選べば遊侠の徒だった。
誤解がないように断っておくとうちの両親はすっかたぎ(全くの堅気)だ。また裕福でもなく同居人を二人も住まわせておくような家でも無かった。
当時18歳を過ぎた俺と両親で六畳間に布団を三つ並べて窮屈に寝ていたのだから間違いない。おまけに妙に信心深い親父が仏壇まで広げて置くものだから線香を立てる香炉からこぼれる灰を被って寝ていた。
あの狭い家で半年も彼らと暮らしたのだ。
一人は60代の親分。スキンヘッドに白いジャージの上下。艶のない、プルタブの奥にある暗闇のような目をしていた。スキンヘッドの理由については
「自分の兄貴分は気性の荒い人でね、機嫌を損ねるとよく分厚い硝子の灰皿でばかーっと横殴りにされたもんだよ。でもね、あきらちゃん(こう呼ばれていた)、避けちゃあいけないよ。避けたら終わらないんだ。気を失ってもいけねえ。時にはまばたきも具合が悪い。後ろに手を組んで、ありがとうございますって貰わないとね。そんな調子だから頭が割けるたんびに縫わねえといけねえ。頭に毛があっちゃあそのたび面倒だろ?いまは時代がいいよ。いまどきの若い奴らなら死んでるんだからへへ」
納得である。ここでは仮に親分さんと呼ぼう。実際はもう少しストレートな呼び方をしていたがここに書くにはどうも口当たりが悪い。
もう一人はタカさん(仮名)という小太りの優しい目をした若い衆で当時は30くらいかな?なんて思っていたがいま思えば20代の半ばがいいところかもしれない。振り返れば十分に坊やだった。
誰かと初めて話す時は身の上話や年齢など当たり障りがない話をするものだが、この場合は大体が当たり障りがあるように感じて結局最後まで本名も年齢も知らないまま彼らとは別れたのだ。
この頃の俺は(多分、たしか)大学を一年と通わずに辞めて身軽になった(思い違いだけど)あたりで、昼過ぎに起き出して友達と遊ぶか彼女と会い、ゲーム、昼寝、親の手料理を好きなだけ堪能したら、博打好きの親父、二人のならず者と麻雀を夜通し打ってはまた寝るを繰り返す。いわば人生のピークだった(違う)。
麻雀はいくら打ってもヘボだったが(点数計算も覚えられなかった)、二人の同居人とはおかげでずいぶん打ち解けた。
慣れるとタカさんなんかは俺にずいぶん優しかったが、それでも一定以上はこちらに踏み込んでこない礼儀のようなものを持っていて「この人種もやたらに無茶な生き物ではないのだ」と学んだりもした(結局は個人のパーソナリティによるだろうけど)。
夏のある日、彼らと熱海へ繰り出したことがある。数か月にわたり身を隠すように過ごしていた二人の気晴らしに花火大会はうってつけだったのだ。早朝、両親と二人の居候と俺は夏を満喫しに出発した。
しかしこの日の花火を俺はあまり覚えていない。記憶に残っているのはプールで見たタカさんの背中だ。
それは昼過ぎの熱海、夜の花火まで時間があった俺たちは初めからプールと決め込んでいた。とても綺麗な市民プールだったと思う。入場チケットを握ったタカさんは子供みたいにはしゃいでいた。
「自分は苦手だ。日陰で休んでいますよ」
親分さんは頭を揉みながら市民プールを離れていった。去り際、タカさんにふっと視線を送っていった。
「お世話になってるんだ。あんまり浮かれてご迷惑になってはいけないよ」
そんな目をしていた。親分さんは昔気質の人だった。うちの親父の手前、すこしばかり釘を刺したのだろうと思った。それは間違いだった。
最高の日和だった。海から吹く風にほら楽しいぞと囁かれ、高く昇った太陽にはやく入れとせっつかれていた。
でも、タカさんはプールに入れなかった。
タカさんの背中に入れ墨が入っていたからだ。
背中の一面に龍かなにかを模した入れ墨が入っていたからだ。
タカさんはプールに入れなかった。
「龍かなにか」なんて曖昧なのは理由がある。タカさんの入れ墨は未完成だった。背中の全面に黒い線や、点線が這っているばかりで、色一つない。なんの形も意味もまだ吹き込まれていない。まるで落書き、もっといえば汚れだった。
大掛かりな入れ墨は長い期間に渡って施されるものらしく、この時タカさんは全工程の半分にも満たない状態だったのではないだろうか。
「じゃあ、外で待ってますわ」
タカさんはシャツを羽織ると寂しい顔を隠すように背中を向け、振り返らずにプールサイドを後にした。
俺は、いいじゃん別に、と思った。許してくれよ、と。
もちろんルールは守るべきだ。そもそもタカさんはそういう自由と引き換えにツッパったのだ。自分の選択の結果は受け入れなくてはいけない。だからこれは思い出の話として、わがままな肩入れの話としてすっかり聞き流して欲しいけれど、あの時はそう思った。
そして、親分さんは手本を見せていたのだと知った。
親分さんは知っていたのだ。タカさんがプールに入れないことを。それでもはしゃぐタカさんを見て、はっきりとやめろとは言わずに自分で気づくように言ったのだ。
「自分は苦手だ。日陰で休んでいますよ」
さて、俺たちもいよいよプールは諦めた。こんな気持ちになるために熱海くんだりまで来たわけではない。親分さん、タカさんと合流すると面舵一杯、進路をパチンコ屋へと切った(どうも思い出にパチンコがつきまとう)。
店の名前も覚えていないが、この時が実質的な俺のパチンコ初体験になった。
観光地のしょぼいパーラーだ(「パチンコ屋」「ホール」呼び名はいくつかあるがこの店の雰囲気には「パーラー」を進呈しよう)。板張りの狭い店内。まばらに年配客。寂れた店だった。
ところで俺も最初からパチンコが好きだったわけではない。
なにしろこの寂れたパーラーに入店したときも内心、
くだらねえな
と思っていた(いま振り返ればその感想はあながち間違いでもない)。
あれはいつだろうか
たぶん中学生になるかならないかの頃、親父に連れられて麹町のパチンコ屋に行ったことがある。
最近では警察の指導も厳しくなって子供の入店に店側も神経質だが、この頃はまだまだ鷹揚で子供が一人で来店したのならまだしも親が連れてきたとわかれば黙って見過ごす店も多かった。
千円だったか二千円を握らされて親父の隣でパチンコを打った。
俺は父親と接する機会に恵まれずに育った。
当時、親父と話しをするのはとても苦手だった(いまは大の仲良し)。店内に充満するタバコの匂いも大嫌いだったし(パチンコ店とタバコはベストタッグだ)、言われの無いお金は、貰うのも使うのも嫌悪感があった。
親父なりに子供をあやしてくれたわけだが、親の心子知らず。逆効果だった。
ふまえて、ごく自然に熱海のパーラーもくだらなかった。
パーラーでどう過ごしたか、いまいち覚えていない。
親父に一万円札を渡される(こういうお金が本当に嫌いだった)。始めから半分ほど使って残りは返そうと考える(まったく金を使わないのはシラけるものだ)。のらりくらり打つふりをしてお茶を濁す。
曖昧だが、俺の性格と経験から想像するにこんな感じだったのではないだろうか。
ただ、しっかりと覚えていることもいくつかある。
例えばこの時、タカさんはパチンコではなくスロットを打っていた。
機種も「初代ガメラ」で間違いない。ロデオが生んだ4号機スロットの名作。簡単な大当たり消化でだれでも大量獲得。等価交換で技術介入すれば設定1でも「浮く」激甘機種だった。
あの時タカさんに言われた。
「試しに打つか?ほら、右リール上に赤いのを狙うんだよ」
回転中のリールは全く絵柄の判別がつかず(はじめから回転中のリールの絵柄が見える人はほとんどいない。経験と共に次第に見えるようになる)、俺はほんの2、3ゲームでギブアップ。あとは後ろで見ていたのを覚えている。
筐体上部に小さな液晶がついた台だった。
「通常時逆ハサミ赤7上段狙い」は少しスロットに詳しくなれば「初代ガメラ」の代名詞。
振り返れば間違いなく俺のスロット初打ちはガメラだった(もっともこれを知るのはこの時から2年後、ガメラはホールから姿を消していた)。
数時間後、タカさん以外は全員ガミを食い(これはとても下品な言い回しでマイナス収支を指す)、タカさんだけが一人で3万を超える浮きを叩きだしていた(といっても軍資金は全てうちの親父が出していたため、このあと勝ち金の分配が行われた)。
さて、俺は「タカさんだけが勝った」という点に興味を持った。
どうして勝てるの?偶然?
と聞くと代わりに親分さんが
「こいつは昔パチンコ屋で勤めていてね、勝ち方を知っているんですよ」
タカさんも
「一応ね」
俺はなにしろ理屈っぽくて仕組みの話が好きな性質だから熱心に「勝ち方」を聞いた。するとタカさんも気をよくしてパチンコの極意を伝授してくれたのだ。
(結論から言うとタカさんが俺に話したパチンコの攻略法は全くのデタラメだった。もっと言えばこれを最初に信じたが最期、真実の光は恐ろしく遠のき、かつ分厚い雲の中に隠れるといった非常に悪質な代物で、付け加えると俺は見事にこの話を信じてしまったのでここからの数年間はお先が真っ暗になった)
気づくと花火大会は終わっていた。そんなことより頭の中は「さっき仕入れた攻略法を試してみたい」「そういや地元の駅前にパチンコ屋があったぞ」と、そればかりだった。
数日経っていたと思う。
記憶ではこの日、誰も家に居なかった。
(もしかすると親分さん、タカさんに関してはこの時すでに同居を解消していたかもしれない。記憶をいくら掘り起こしても、なぜ彼らがやって来たのか、またいつ、どんなシーンを演じて彼らと別れたのか全く覚えていない。実際はそんなはずはないが「いつの間にか」いなくなっていた)
これは珍しいことで特に親父は大抵の場合寝ているか、テレビの前から動く人ではない。
決行しよう
枕元の小引き出しからあり金を全て財布に突っ込み家を飛び出た。
軍資金は2千円。これが正真正銘の全財産だったが「すべてぶっこむ」と決めていた。目に火の玉が踊っていた(安い男だ)。
生まれて初めて自分の意思でパチンコ屋の自動ドアーを通った。
三茶のガイアだ。この店は本当に活気があった。博打場の熱気に気圧された。耳をつんざく騒音。光と煙の洪水。がしゃーん!がしゃーん!そこら中で老いも若きも台をどつきまくっていた。大袈裟ではなく島全体がどつかれるたび震えるのだ(いい時代だった。いまはすっかりお行儀がよくてまるでお遊戯に成り下がった)。まさに狂乱。
内心びびりまっくていたが、引き返すことは出来ない。こちとらパチンコの極意を授かってきているのだ。
タカさんに伝授された条件に合う台は何台も転がっていた。条件が緩すぎてゴロゴロ転がっている。この時点でタカさんを疑うべきだが坊やの俺にそんな余裕はない。
ここにしよう
一台に決めた。隣の席が婆さんだったのでいくぶん気楽に感じたのだ。
パッキーカードも(パッキーカード!ああ、なんてチープで素晴らしい!)玉貸しボタンもパチンコに関する全ての仕組みに不慣れだった。打ち出すまでに相当手間取った。
知らない人は実際に打ってみるといい。1000円のパッキー2枚分の玉が消えるはやさときたらガムの味が無くなるよりはやい。
震える指で玉貸しボタンを押し、最後の500円分が上皿に吐き出された時、隣の婆さんが俺の台を覗き込んで何かを喚いた。ババア、口をきくんじゃねえよ!と思った。
次の記憶は夕暮れの交換所。
46500円を手にしていた。
こんなに心躍ることがあったんだ。
あれから15年が過ぎ、俺はとっくにあの時のタカさんの年齢を超えた。
親分さんてどうしたの?親父に聞いたことがある。
「さあ、どうだろう。死んでるかもしれねえな」
タカさんはどうしているだろうか。
タカさんがいなくなったプールサイドで親父が言っていた。
「タカはかわいそうだ。向いてない。辞めたほうがいいんだ」
背中の龍はどうしているだろうか。
誰もがあなたのようなら僕も幸せです。