僕が家業を継ごうと思った理由。
僕の実家は、佐賀県で家具の製造業を営んでいます。祖父が起業し、現在は2代目になる父が社長を務めている会社です。社員は約50名、下は18歳から上は65歳までの幅広い人が働く会社です。
今回は、なぜ僕が家業を継ごうと決心したのかについて書きたいと思います。
野球に没頭した14年間
僕は小学校3年生の時に、父の影響で野球と出会い、そこから大学を卒業するまでの14年間、野球に没頭していました。
野球センスは、どちらかといえばあった方だと思います。少年野球チームではキャプテンを任され、中学でも副キャプテンを任されました。小中高、いずれの時も最上級生になる一つ下の学年から、レギュラーとして起用したいただきました。
高校は佐賀の佐賀商業高校へ進み、3年次には、レギュラーとして夏の甲子園に出場することができました。
高校卒業後の進路を決める時、僕の尊敬する恩師(高校野球時代の監督)の後押しもあり、高校の教師になって野球の指導者になるべく、東都大学野球リーグ1部の強豪、立正大学に進学しました。
大学時代に味わった挫折
ここまで順風満帆に野球人生を送ってきたと思われるかもしれませんが、決してそんなことはありません。僕は特に何かに突出した選手ではなく全てに置いて60点〜70点くらいでこなす、いわゆる器用貧乏な選手。野球に対する熱意とリーダーシップはあった方なので、そこが評価されてずっと起用してもらってたと思います。
しかし、大学野球時代に大きな挫折を味わいました。進学したのは、戦国東都とも言われる、日本一レベルの高い、東都大学野球リーグです。4年間、本当に何をやってもうまくいきませんでした。決して努力をしなかったわけではありません。しかし、努力の質、量、共に足りなかったのだと思います。
ただ、この経験のおかげで、どんな世界にも、上には上がいる。僕のような突出した技術やセンスのない人間は、常に貪欲に学び、努力をしないとこれからの人生、つまらないだろうなと強く実感することができました。
そして、決心をする
高校時代の恩師の影響もあり、僕の中では、社会人野球でプレーできるレベルに到達できたら、高校野球の指導者になろうと決めていました。なので、教員免許こそ取得はしたのですが、ここで教師になることをキッパリと断念しました。
14年間も野球をやってきたので、野球やスポーツ関係の仕事に就くことも考えましたが、僕の中では燃え尽きた感があり、全く別の業界で仕事がしたいと考えました。
そして、僕は家業を継ぐ決心をしました。
理由は、
子供の頃からずっと見ていた、楽しそうに仕事をしている父親の姿が、すごく印象に残っていたからです。
その他にも、14年間の野球生活で、本当に苦労をかけたので、何か恩返しがしたいという気持ちもありましたし、「僕が継がなきゃな。」という変な責任感もあって、継ぐ決心をしました。
そして、約1年ほどハウスメーカーの営業として勤務した後、今のレグナテックに入社しました。
次回は入社して感じた、後継者って甘いな。。ってことを書こうと思いますので、読んでいただけますと嬉しいです。