ライター歴:-3年10カ月『2017年4月』【エッセイ】30歳中卒男が4年がかりでシナリオライターになるまで
「今度こそ本当にもう、ダメだ……」
2017年4月、私の経済状況は完全に行き詰っていた。
滋賀県の実家を飛び出し、大阪のシェアハウスで暮らし始めて早一年。
当初は日雇いバイトで食いつないできたものの、とうとうその日暮らしの生活ぶりに破綻の兆しが現れてきた。
通帳の残高を見つめつつ、私は途方に暮れている。
「イッっ゛っ……あ……うぅ……」
腰掛けていたベッドから立ち上がった瞬間に、腰から全身へと激痛が駆け巡った。
持病の慢性ヘルニアの仕業である。
二十代中頃からの付き合いだ。
痛みと痺れでその場にうずくまった。
そんな持病を抱えている私である。
そもそも日雇いの肉体労働で日銭を稼ぐこと自体が無謀であった。
当時の月給は13万円、月々の出費は15万円ほど。
慢性的な赤字を垂れ流し、生活が立ち行かなくなってきた。
(せめて肉体労働じゃない仕事に就ければ……)などと思いつつも、所詮は中卒の学歴の私。
高等学校卒業程度認定試験に合格したとはいえ、ホワイトカラーの職に就くことなど望むべくもなかった。
「それにしても、まさかまったく仕事がないだなんて……旅行業界って、こんなに厳しかったんか」
そんな私でも受け入れてくれる業界があった。
実をいうと2016年の10月から、旅行業界の添乗員に転職していた。
大手旅行会社が企画する日帰りバスツアーの、ガイド兼管理者として付き添っている。
『旅程管理主任』という資格を取ればすぐにでも仕事を始められた。
旅行会社が希望者に対して研修をほどこしてくれていた。
3日間の研修を経て、私は添乗員になった。
冷暖房の効いたバスの室内でおおむねの勤務時間をバスのシートに座って過ごすことができる。
今までの人生で空調の効いた部屋で仕事をすることがほどんどなかった私にとっては、まさに天国のような職場環境であった。
「それが、こんな目に遭うとは……」
私が仕事を始めた10月は旅行会社にとって書き入れ時である。
秋の紅葉ツアーが盛んに開催されるからだ。
新人の私にも積極的に仕事を回してもらえる。
おかげで勤めて二カ月間ほどは月収が20万円ほど得られて、ホクホクの状態であった。
だが繁忙期があれば閑散期もある。
1月から3月までは仕事がほとんどなかった。
世の勤め人は年度末に向けて忙しくなるため、自然と旅行者の数が減るからだ。
そんななかでもベテランであれば優先的に仕事を回してもらえるのだが、新人の私には望むべくもない。
月収は8万円程にまで落ち込んだ。
貯蓄も10万円を切っている。
破産は目前であった。
「仕方がない。今回も……」
私は実家に電話した。
「うん、俺。今月も生活が苦しくて、ちょっと融通してくれへん?」
生活費の無心である。
実をいうと、母から度々送金をしてもらっていた。
「しかたがないやんか。仕事がないんやから。これでも一生懸命働いてるんやって。でも中卒やからまともな仕事がないねん、わかるやろ?」
私はわざわざ『中卒』だからという言葉を付け加えた。
母の罪悪感を煽るためである。
私は高校の頃、出席日数が足りずに留年をした。
度重なる遅刻が原因だった。
当時の私は強迫性障害に苦しめられいた。
生活に支障をきたすほどの奇怪な行動や儀式に熱中する精神病である。
異常なほど手洗いをしたり、戸締りを確認してしまう病気と説明すればイメージが湧くだろうか。
私の場合は朝に目覚めてから部屋を出るために歩く際に、足下から「ギシ」と音が出るたびに床を22回×22回撫でなければならない。
30分程時間をかけてトイレをすますと、トイレのレバーを22回引かなければならない。
電灯を点けるたび、切るたびに22回×22回押さねばならない。
家の戸締りを22度確認せねばならないので、15分以上時間がかかる。
特定の通りを通るたびに22往復ねばならない。
その時間は8時22分でなければならない。
一分でも過ぎれば9時22分まで待たねばならない。
そんな不可思議なルールに日常生活を縛られていた。
まともな学校生活など送れるはずがなかった。
そんな自分の奇怪な行動と訳の分からないルール―に対して、当時からバカげているという自覚があった。
もう疲れた、いい加減こんなことは止めたいという思いがあった。
だが辞めれらなかった。
私にとって『22』という数字は、異常なほどに神聖な数字であった。
もしもこのルールに背くと、自分にはとんでもない不幸が押し寄せる。人生が台無しになる。
そんな固定観念に精神が支配されていた。
だがそんなルールと慣習こそが私の人生を徹底的にまで破綻させた。
高校二年生の夏ごろからまともに学校へ通えなくなり、年度末には単位が足りずに留年の措置を申し渡された。
だがこの病が治まらないうちには、少なくとも来年からいきなり病気が治り、まともに学校に通えるとは到底思えなかった。
私は学校を自主退学する道を選んだ。
母は私をまともに学校へと通わせられなかったことに責任を感じていた。
もっと早く気づいていたら、適切な医療にかかっていたらと……そんな母の罪悪感を、私は利用した。
「それに、添乗員の仕事がないときは前みたいに引っ越しのバイトとかも行っとるよ。でもな、もう俺の身体は、もうボロボロやねん。家の仕事の手伝いもしてさぁ、わかるやろ?」
高校を中退した直後の約一カ月間、私は自宅に籠って過ごしていた。
自分の行動の奇怪さに自覚があるので、人目に触れられたくなったからだ。
だがそんな状況にあっても、頑なに精神科には通おうとはしなかった。
『精神障碍者』というレッテルを貼られるのが恐ろしかったのだ。
自然と私は八方ふさがりの状況へと追い込まれた。
そんな私に父は、「学校を辞めたのなら働け。働けないのなら出て行け」と脅してきた。
実家を追い出されて生きていける状況でもないので、働かざるを得なかった。
私は勇気を出して喫茶店のアルバイトの求人に申し込み、なんとか半年間勤め上げた。
だが私の症状は悪化の一途をたどった。
症状を堪えて勤務した反動が自宅で現れる。
寝る前に壁のシミを見つけたらその箇所を22回見つめてさらに22回くり返し、「大丈夫だよ」と22回呟かなければ寝付けなくなった。
その際に新しいシミを見つければ、前述の行動をくり返す。
一度でも気が逸れればイチからやり直さねばならなかった。
どうしてもできなくなると、自分で自分の顔を殴って自分自身に無理やり言う事を聞かせた。
自然と不眠に陥り、起き上がることすら困難な状況へと陥った。
私は喫茶店のアルバイトを辞めた。
高校卒業程度認定試験の勉強をすると店長に告げて、一応の面目を保った。
試験には合格した。高校生の頃に単位をそれなりにとれていたので、1科目だけ試験を受ければよかった。4時間程度の勉強時間で事足りた。
だがそれ以降、就職や進学をすることなく、ひたすら自室に引きこもり続けた。
症状を必死に抑えつづけ、気づけば半年が経過していた。
自室の窓からは桜並木が見える。
近所の中学校に通う新入生が、眩しい笑顔をまき散らしつつ歓声を上げながら登校するのを見かけた。
自分にもそんな時代があったなぁと思いながら、私は独り窓からその光景を眺めていた。
私の同級生たちは高校を卒業した時期だった。
私の地元は田舎町である。進学であろうと就職であろうと、過半数は都会へと出ていく。
私はむせび泣いた。
同級生たちが夢や将来に向けて羽ばたいていったにも関わらず、今の自分の状況はいったいなんなのだと。
ひとしきりむせび泣いたあとに、社会復帰を決意した。
いつまでもこのままでは居られない、居たくない。
自分にもなにか取り柄があるはずというプライドが、現状のままの自分で居続けることを許さなかった。
だが強迫性障害の症状がいまだ残っているこの状況。
まともな勤め先など見つけられやしなかった。
求人情報誌を眺めつつ途方に暮れていると、父がおもむろに声をかけてきた。
「うちで働いてみぃへんか」
父は漆塗りの職人である。
地元の特産品である一基数百万円もする漆塗りの仏壇を製造していた。
そして伯父と二人きりの工房を切り盛りしている。
工房があるのは父の実家からやや離れた、人口が二百人ほどしかいない村の外れである。
その場所でなら私の奇行が目立つことはない。
唯一目撃することとなる父や伯父も、事情を察してスルーをしてくれる。
私は以後4年間、週に3日ほどこの工房で見習いとして働き、ゆっくりと社会復帰を図ることとなった。
なにもない、トラブルもない、友達もいない、ただ働くだけの日々が続いた。
そんな生活に突然転機が訪れた。
2008年の世界金融危機が発端だった。
その影響はすさまじく、一見無縁に思える仏壇業界にまで波及した。
仏壇が数カ月間にも渡って一基も売れなくなったのだ。
まあ理解できなくもない。
不況に陥れば贅沢品が売れなくなるのは当然のことだ。
しかも新車のプリウスよりも高い仏壇である。
今まで売れていたことが不思議だった。
工房はたちまち閉鎖の危機に陥った。
私と伯父の家族がいつ路頭に迷ってもおかしくない状況であった。
そんな中で救いの手を差し伸べたのが京都の業者であった。
仏壇は売れなくても、漆を塗る技術には需要がある。
国宝や重要文化財に指定されている神社や寺の改修工事に携わらないかと声をかけてきた。
歴史的・文化的に価値のある建造物は、建てられた当時のままの技法で改修されるのが原則となっている。
漆が外壁、内壁に用いられる際の耐久年数はおよそ半世紀。
塗り替えを待ちわびている建造物はごまんとあった。
私たちは仏壇の製造を休止して、現地に赴き建築物の改修にあたることとなった。
漆は風にあたると乾かないという性質があるうえに、ホコリがつくと品質検査で不合格となる。
なのでエアコンはおろか扇風機すらも使えなかった。
文化財が焼失するリスクを避けるために工事現場では熱を発するものは徹底的に管理されている。
なのでヒーターも使えなかった。
私たちは夏は蒸し風呂のような工事用テントの中で、冬は凍えながら作業にあたった。
泣きたくなるぐらいハードな肉体労働であった。
さらにこの仕事は財布事情に関してもハードだった。
日当が安く、父からすれば家族を養うのには厳しい金額であった。
「おい。もうダメや……もうどうにもならん。家も手放さんといかん……なぁ、このまま二人で死のうか?」
仮住まいのアパートで父と肩を並べて床についた際に、そう語り掛けてこられた日のことを未だに忘れることができない。
私としても、家族を路頭に迷わせるわけにはいかなかった。
父は私からの同意を得て、私の給料の1/3ほどをピンハネした。
(これは罪滅ぼしなのだ)と私は考えた。
高校を中退して、散々迷惑をかけた父と母と兄弟に対する贖罪なのだと。
家族に貢献して、罪を償うのは今しかない。
私は強迫性障害の症状を必死にこらえつつ勤務し続けた。
作業が終わるたびに現場が変わるので、2・3か月ごとに全国各地を転勤して回る日々が続いた。
病んでいてはできない所業だったので、私は病むことをやめた。
次第に強迫性障害の症状は鳴りを潜めた。
そんな生活が4年間も続いた。
そんな折に、私に彼女ができた。
オンラインゲームで意気投合した女性であった。
高校を中退してから10年近くが経過していた。
浮世離れした生活を送っていた私は、女性とは完全に無縁な生活を送っていた。
もちろん、それまで童貞であった。
私は初めて出来た彼女に浮足立っていた。
そして先走りもしていた。
(この機会を失ったら、一生独身かもしれへんな)
金融危機の影響が去り、家計はなんとか持ちこたえていた。
私の収入がなくても、家族が路頭に迷うような事態に陥る可能性は低くなっていた。
私は漆塗り職人を辞めて、自分の人生を生きようと志した。
(どうしても幼い頃から夢だったゲーム会社にプランナーとして就職したい)
実はせこせこと小銭をため込んでいた私。
貯金は200万円ほどになっていた。
改めて、希望する企業の求人欄を確認する。
4年制大学卒と書かれていた。
他の企業の求人要項もチェックする。
だいたいは専門学校以上の学歴が必須であった。
私はため息をつく。
(結局、金かい)と。
大学であろうが専門学校であろうが、卒業するには倍ほどの資金が必要に思えた。
その頃の私は既に二十代半ば。
貯金を終える頃には三十歳目前。
卒業するころには三十代中頃。
ゲーム業界参入障壁が高く、競争が激しい。
学校を卒業したところでとても就職できそうになかった。
だが一生漆塗り職人のままではいたくない。
自分の好きな職業で生活の糧を得て、彼女を支えたい。将来の妻子を食べさせてあげたい。
結婚するのであればそのぐらいは必要だと凝り固まった考えを抱いていた。
だが金がない。
実家に学費の工面など頼めない。
現実と理想とのギャップやジレンマ、いつまで経っても人生のスタートラインを切れぬ日々に焦れる。
悩みに悩み疲れた私は日に日に憔悴していった。
彼女はもちろん、私の変貌っぷりを見逃さなかった。
「ごめんなさい。やっぱり別れましょう」
彼女から別れを切り出され、私は愕然とした。
彼女は東京の有名私立大学を卒業して修士号を取得した才媛であった。
学歴に猛烈なコンプレックスを抱いていた私。
こんな自分と彼女とは釣り合わないと思っていた。
だが世の中には学歴などのいわゆるスペックでは人を評価しない、そんな女性がきっとどこかにはいるはずという希望を抱いていた。
そしてやっと、そんな女性に巡り合えたと思っていたのに……。
「あなたの学歴がどうとかは思っていないの。復学も、進学も、好きにすればいいと思うし。だけど、知り合ったときには明るくて優しくて、面倒見の良いあなたが、実はそんなに自信のない人だとは思ってもみなくて……」
と優しく諭してくれる元彼女。
だがもう、どんな言葉も私の耳には届かなかった。
私は再び孤独な生活に舞い戻った。
胸にぽっかりと穴が空いた気分になり、憂鬱な気分がいつまで経っても晴れなかった。
「あ、あれ……なんだこれ?」
ご飯を食べても味を感じられず、一瞬視界から色が失せてグレースケールのように見えることもあった。
しかも時期を同じくして慢性ヘルニアが発病した。
精神病上がりのくせに工事現場で週休1日で何年間も働いてきた弊害であった。
私の身体と心は悲鳴をあげ始めていた。
「いたい、いたい……いたいよぉ」
痛みのあまりにベッドから起き上がれなくなる。
だが仕事を休むことは許されない。
家族は、世間は私に働くことを要求してくる。
だが働いても、働いても、生きる喜びを一向に感じることが出来ない。
苦しみが増すばかりであった。
「どうして俺が……俺だけがこんな目に……神様。俺がなにか悪いことでもしましたか?」
神社や寺院は神仏の祠。そこを改修するということは神や仏に奉仕するということ。
だが、どれだけ身と心を削って神仏に奉仕しても、私には一向に幸せが訪れず、報われもしなかった。
訪れたとしても、すぐに跡形もなく崩れ去る。
私に人望がないからなのか、無能だからなのか、出来損ないだからなのか。
こんな自分だから、何をしてもことごとく失敗をして、不幸になっていくのか。
だとしたらもう、生きていることが嫌になった。
私はとうとう、神仏と家族に奉仕することを諦めた。
当時、27歳。家業を手伝いはじめて約10年。給料をピンハネされて約5年。恩は十分に返した。
私は自分自身の人生を生きようと決意した。
だが大学や専門学校への復学は叶わない。
親にお金を借りることなどもできない。
何者にもなれず、人並みにすら生きることが許されない私の精神はすっかりとやさぐれていた。
(高校を中退したのは、俺のせいだ……俺が病気になったせい……だけど、それって本当に俺だけのせいなのか?)
すでに人生の詰んだ私。
絶望に打ちひしがれる中、恨み言が次々とわき上がってくる。
その矛先は両親へと向く。
(あのとき、親が適切な医療を受けさせてくれれば、必要な福祉や支援に繋いでくれれば……オヤジが俺の耳元で、一緒に死のうなんて言わなければ……俺は、俺は、今頃……自分の思った通りの人生を歩めていたのかもしれないのに……!)
私の若さと人生は、病と家族の生活のために犠牲になった。
そう思い込むようになってからは、とても家族と同居などできなくなった。
私は実家を飛び出した。
とにかく家族と物理的に距離を取る方が良いと考えたからだ。
そして自暴自棄になった私はしばらくの間放蕩生活を送った。
貯金はみるみるうちに失われていった。
首が回らなくなった私はシェアハウスへと移り住み、慎ましやかに暮らすことにした。
だが放蕩癖が治りきらず、さらには自活のためのスキルも身についていなかった私では、一人暮らしを維持することは不可能であった。
そして今、生活費の無心のために母に脅しをかけている。
そのうち自分自身に、自分の境遇に対して怒りが込み上がっていた。
そしてその怒りが家族へと矛先を向ける。
もう自制の仕様がなかった。
「俺って、今まで家族のために働いたじゃん? 俺のおかげで家を手放さずにすんだんやろ? やったら快く生活費の面倒ぐらい見てくれていいんじゃないの? 雇用保険も入ってくれなかったんだしさぁ」
父には経営の知識がまったくなかった。驚くべきことに雇用保険の加入など頭からすっぽ抜けていたらしかった。
「俺が、俺が……俺のおかげで、俺が……何年もウチのために働いたおかげで、大学の進学どころか、復学もできへんかった。今ではまともな仕事にも就けへんようになってもうた。前職が漆塗り職人で、三十手前の中卒男をどこが雇ってくれるって言うの?」
喋りながら涙が出てきた。私の心に残るなけなしの理性が、「これ以上はもう止めろ、電話を切れ」と警告を発するも、そうやすやすと高まった気持ちは治まらない。暴走は続く。
「安定した仕事にも就けへんから、こんな有様になってもうてるんやんか。全部、全部……オヤジと母さんのせいだ! 頼むから俺を高校生の頃に戻してくれよ!? それが出来ないなら黙って金を送れ! この無能!! 息子が精神病になっても気づかなかったくせに!! おまけに馬車馬のように働かせやがって、それでも親か!! 俺は奴隷やったんか!? お前らなんか、親になっちゃいけなかったんだよ!! 俺の人生、返せ……返せよ、このヤロウ!!」
私の感情の昂ぶりはピークに達した。
怒りに任せてスマホを部屋のドアへと向かって叩きつける。
金属製のドアはあえなくスマホをはじき返した。
冷静になってから拾い上げると、画面にヒビが入っていた。
通話はすでに切れていた。
「ああ、ヒドイ有様だ……」
画面の修理にいくらかかると思ったが、すぐに考えるのをやめた。工賃が分かったとしても、支払う金が無い。
「……本当にヒドイのは、俺か」
茫然自失となって、部屋に佇む。
「俺、なんでこんな人間になっちゃったんだろう」
独り言が止まらない。
「生きてて、意味あるのかなぁ」
シナリオライターになりたいという夢や希望などはもう消し飛んでいた。
もう生きていても仕方がない。
生きていても苦しいだけだ。
もうこれ以上苦しみたくない。
その苦しみを他の誰にも与えたくはない。
恨んでいる家族にすらも、与えたくはない。
「死ぬか」
私はカッターナイフを取り出した。
日雇いバイトでは必携の品なので、複数本所持していた。
私は刃を腕にある太くて青い血管へと宛がう。
首の方がいいかななどと考えて、首にも刃をあてがう。
だが首だとどこを切れば大量出血するかわからないので、手首の血管へと刃を当て直した。
このままナイフを深く刺して、力まかせに引けば大量の血が噴き出すことだろう。
失血死するまで、どんなことを想像しながら過ごすのだろうか。
きっと、世の中に対する恨み言を呟き続けるだろう。
本当にそんな死に方でいいのだろうか。
こんな死に方をしたくなかった。
もっと楽しく、朗らかに生きていきたかった。
だけど仕方がないよ。こういう生き方しかできなかったんだから。
きっと部屋も汚れるだろう。
シェアハウスの管理人さんに迷惑をかけるだろうな。
なんだか申し訳ない……。
でも、もう生きてたくないなぁ。
こんな俺だから。
きっと人生、これから良くなるはずもないよ。
死にたい……死にたいなぁ。
そんなことを考えつつ呆然と佇んでいると、おもむろに着信があった。
画面にヒビの入ったスマホを確認する。
父からの着信であった。
無感情に画面を眺めているうちに、着信が切れた。
私は再びカッターナイフを腕にあてがう。
すると再び父から着信がかかってきた。
一応用件だけを聞こうと、着信に応じた。
「……もしもし」
「……もしもし。あのな、母さん泣いてたぞ」
「あ、そう」
素っ気ない態度の私に、父が息を飲むのが伝わった。
「……用事がないなら、切るで」
「ちょっと待て」
何だこの野郎。文句でもあるのかと私がこめかみをひくつかせたところ、
「来月から一緒に山梨の寺で働かへんか?」
「……は?」
意外な申し出に、一瞬私は呆けてしまった。
そして次第に怒りが込み上がってくる。
「母さんから何も話を聞いてないんか? 俺は家の仕事のせいで――」
「十分に聞いた。そのうえでお前をもう一度、仕事に誘いたいんや」
この野郎、頭がイカレてんのかと思いつつも、とりあえず父の話に耳を傾ける。
「お前、金が要るんやろ。それやったらワシが仕事を紹介したるさかい。ちょうど一人では骨の折れる仕事がきたんや。お前が来てくれると助かる」
「お前が大阪で頑張って暮らししてるのは知ってる。人一倍努力してることもな。でももう限界なんやろ?」
「お前が今、一番稼げる仕事はなんや? 漆の仕事やろ?」
「ワシの仕事を手伝って、お金を貯めて、進学したり、やりたい仕事に就くための資金にすればええがな。お金の無心をするより、よっぽどええやろ?」
「今後はもう、お前の給料から天引きせぇへん。丸々お前にやる。それでもう一度やり直してみぃ。お前なら出来るはずやて」
やりたい仕事という言葉を耳にして、シナリオセンターでの体験授業の光景が脳裏に浮かんだ。
(そうだ。人生、やり残したこと……)
高校を中退して引きこもりになった私は、こんな自分でもなにか取り柄はあるはずと思って社会復帰を目指したはずだった。
そんな誓いを立てつつも十年以上経過したいまだに、社会で生きていくだけの取り柄を身につけられてはいない。
それを達成しないうちに自ら命を絶っては、自分は永遠に負け犬だと、自ら認めるようなもとだと思えてきた。
「ワシはな、たしかに親失格かもしれへん。お前の人生をめちゃくちゃにしてもうた。だけど、ワシは何にもできへんのや。お金も無いし、学もない。お前に仕事を紹介してあげることしかできへん」
その言葉を聞いて、別の光景が脳裏に浮かぶ。
自宅に引きこもっていた17歳の私に対して父が、家業を手伝ってみないかと声をかけたときの光景であった。
父は何も進歩していない。
なにも変わっていない。
出来損ないの、親になってはならない男だ。
だがそれゆえに愚直であった。
愛はあった。
それゆえに、今なら少しだけ父を許せるような気がした。
「……考えさせてくれ」
私は電話を切る。
そして父の誘いに乗るかどうかを検討した。
正直、怖かった。
再び漆職人の道へと引き戻されるのが。
親の庇護のもとに戻るのが。
人生を飼い殺しにされるのが。
ヨーロッパには、『地獄への道は善意によって舗装されている』という格言があるという。
だが、破産が間近に迫る現在の状況。
シナリオセンターに通いたくても、激安の学費すら賄うことができない。
父からの誘いを拒否する選択肢など、残されていなかった。
「くそ、くそ、くそッ!!」
私は自分の無能さを呪った。
同年代はすでに当然のごとく自立した生活を送り、結婚をし、家族を養っている年頃である。
それに比べて自分は親に金を無心して、そのうえ出戻りをしなければならない身上。
その屈辱に耐えられなかった。
「ああ!! くそっ!!」
私は布団をひっつかみ、部屋の中でぶん回す。
狭い室内ゆえに家具に次々と家具を倒していく。
炊飯器が倒れ、机の上のインク壺も床にこぼれた。
「だいたい、今さらどのツラ下げて会えっていうんだ……」
散々毒を吐きまくった父母のもとへと戻る。
恥の上塗りであった。
恥の多い人生だったと思う。
そう書き出した太宰治は最終的に自殺した。
私はどうなのだろうか。
「お金の無心をするより、よっぽどええやろ?」という父の言葉が突き刺さる。
「……なめやがって! どいつもこいつもこの俺をなめやがって!!」
私ははカッターナイフを仕舞い、スケジュール帳を開く。
「なってやるぞ、ライターに……なるまで死んでも死に切れるか!!」
そしていつに実家へと帰り、山梨県の寺で働きだせるのかを指折り数えだした。
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