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「犬」

不覚にも起きてしまった。隣に寝ているプーさんのぬいぐるみは、夜寝る前より四角くて漢字の「出」に似ていた。同居人の寝相が原因だろう。
顔を洗って歯磨きをし、ラジヲ体操をする。今日はラジヲ体操第2を1箇所間違えるという戦犯を犯す。
今日はチョリソーを食べに西日暮里駅に行く予定がある。僕は時計を少し確認しご飯を食べず、アベノマスクを身に着け家を出た。
寒空の中最寄りの駅に到着し、電車に乗った。
隣に座った人は電話をしていた。暇だから盗み聞きをしてしまった。隣に座っていた人は、「最初はグーって言われてパーはグーを出したけど相手にパーを出されたってわけね。パーはチョキだしたら勝てたって、最初はグーでパー出してきた相手じゃなくてグーじゃなくチョキ出せなかったパーがパーじゃねえかって俺は思ってる」と言っていた。
意味がわからなすぎてイライラした僕は途中の駅で降りてしまった。その駅で、事件が起こった。


「成人男性でアベノマスクをされている方にアンケートをお願いしているんですが……」

勢いで降りてしまったが、次の電車まで5、6分程ある。
ホームの端でイライラを誤魔化す為にスマートフォンを弄っていると、不意に目の前に男性が現れた。
胸板の厚さや腕の逞しさが黒いTシャツ越しにわかるほどで、かなり屈強そうな男だ。
彼もアベノマスクを着用しており、彼自身の息で黒眼鏡が曇っている。

「はぁ?アンケートですか……」
「はい。お時間は3分とかかりませんし、謝礼としてQUOカード500円分を差し上げているのですが、如何でしょうか?」

時間は3分とかからず、500円分の謝礼が貰える。時給にすると1万円、悪くはない話だ。乗った。

「はい、ありがとうございます。まず、ご年齢と性別をお聞かせください」
「24歳、男性…は見ればわかるでしょ。さっきも言ってたし」

無駄な質問でイライラを増やさないでほしいものだ。
俺が答えている間に、男は眼鏡を外し、Tシャツの裾で眼鏡を拭き始めた。幾つか数えることはできなかったが、その腹筋が割れていることに違いなかった。
俺は少しだけイラッとしつつ、次の質問を待つ。
眼鏡の下の彼の目はそこら中の光を全て集結させたかのように輝いている。不覚にも綺麗だと思ったのも束の間、

「失礼致しました。では、本題に入ります。あなたはアベノ元総理に返り咲いて欲しいですか?その願いを込めてアベノマスクをしているんですよね?そうでないとアベノマスクなんてしませんよね?いやはや実は僕もアベノ党を曽祖父の代から支持しておりまして…」

そう早口にまくしたてながら、俺の手をスマホごと両手でがっしりと掴んだ。
あんぐり。
アンケートとは銘打っていたが、政治の話なんぞ初対面の人とは避けるべき会話ツートップだぞ。
そして何より、いきなり手を強く掴んできたのが意味不明だし、気持ちが悪い。
ソーシャルディスタンスを考えろ。アベノマスクの飛沫防止率を高く見積りすぎではないか。
丸く収めて逃げよう。

「すみません、ちょっと俺は政治がわからないのでアンケートはやめておきま……」
そう言い終わるか終わらないかだった。
彼の両手が、いや、彼の大きな身体が俺を包み込む。俺は状況についていけない。
何の抵抗もできない俺ごと、彼は線路に飛び込んだ。

2枚の白い布マスク-アベノマスク-がひらりと宙を舞った。

あれ、あと何分で電車が来るんだろう。


キィィィィィィ
気がつくとすぐそこまで電車が迫っていた。

ああ、これが走馬灯ってやつか。
田中、中島、田中、田中…。
アイツら元気かな…。
「俺らは5人揃えば無敵だー!」
なんて馬鹿みたいに話したっけ。
俺は、そんな当たり前な日常さえ過ごせれば…幸せだったんだ。
馬鹿だなあ…。
こんな簡単なことに、死ぬ直前まで気がつけなかったなんて。

そうだ、俺の日常を壊したのは"アイツ"だ。
この、"マスク"さえなければ。

電車がもう目の前まで迫ってきている。
「俺はたとえ死んでも…お前と、このマスクを絶対に許さない」
小さく呟いた俺の声は、
世界の雑音に虚しくかき消された。

俺が最後に目にしたのは、
妖しく笑うアベノ元総理の姿だった。


「……か…くん」
「た…か……くん」
「田中くん!」

はっ…。
目を覚ますと見知らぬ天井。

「生きてるのか…俺」
「ご機嫌いかが?私はここの看護師よ。田中くん記憶はあるかしら?」

俺の記憶…。
そうだ、俺はアンケートを受けてる途中、突然線路に引きずりこまれ電車に轢かれたはずだ。
それなのに、なぜ俺は無傷なんだ?
それにあのアンケートの男は一体…。
アベノマスクについてやけに熱く語っていたが…。

ん?
アベノ?
そうだアベノ元総理!
俺の日常を奪った張本人。
なぜ俺の命を狙うのか、理由は不明だが……。

「ふっ…はっはっはっ!」
「田中くん!?病院では静かにしなさい」

おもしろい…。
そっちがその気なら、やってやる。
たとえ敵が国だろうと、
俺は…必ずアベノマスクを殲滅する。

そう、誓った。


そうと決まればこんな所にはいられない。
俺はベッドから起き上がろうとした。

「痛っ!」

身体中に激痛が走り、思うように体が動かない。

「ほら、まだ完治してないんだから。しばらくは大人しくしてなさい。」

看護師さんが、俺の体を優しくベッドに押さえつける。

「それと病院にはいろんな人が出入りするから、ちゃんとこれを着けておいてね。」

看護師さんはそう言うと、マスクを取り出した。
マスクを見た瞬間、俺は身体の痛みも忘れ、全力でそのマスクを弾き飛ばした。

弾き飛ばされたマスクは宙を舞うと、紐が上手く看護師さんの両耳にひっかかり、看護師さんはアイマスク状態となった。

看護師さんは声を荒げる。
「なにやってるの!勝手に電気を消したら駄目でしょ!早くつけなさい!」

偶然にもこの看護師は、布で顔が覆われて真っ暗なのと、電気を消されて真っ暗なのの、区別がつかないタイプの看護師だった。

俺はその隙に病室を抜け出した。
痛む身体に鞭を打ち、走り続けた。

しかしこんな満身創痍では、アベノマスクとは戦えない。
その時ある事を思い出した。
俺、田中、中島、田中、田中、俺らは5人揃えば無敵だー!
そうだ!あいつらに助けを求めよう。

まずは田中の家に向った。
丁度田中の家の前に、散歩帰りの田中と中島の姿があった。
「田中、中島、説明は後だ!とりあえず一緒に来てくれ!」

次に田中の家に向かった。
田中の家に向かう途中で、移動販売のタピオカ屋で店員と大喧嘩している田中を見つけたため、無理やり同行させた。
後は田中だけだ。

最後に田中の家に向かう。
田中の家のインターフォンを押すと、田中の父親が応答した。
「あ、田中のお父さん。田中はいますか?」
田中の父親は答える。
「あぁ田中のお友達か。田中は今、親戚の家に遊びに行っていて居ないんだよ。」

そんな。俺ら5人が揃わないと意味がない。俺、田中、中島、田中、田中、5人揃って初めて無敵になれるのに。

しかし俺はある重要な事実に気づく。

田中の父親って田中じゃん。

じゃあ田中いないんなら田中の父親でいいや。

「田中のお父さん、一緒に来てくれませんか?」
「勿論だ。丁度君たちに渡したい物もあるし、すぐに行くから待っていてくれ。」
まさか承諾されるとは思っていなかった。
数分後、田中の家の扉が開き、田中の父親が姿を現した。

そこにいたのはアベノ元首相だった。
「何故、お前がここに!?」

そうだ。忘れていた。田中の父親は田中ではない!
田中の本名は、アベノ田中だ。
いつも田中と呼んでいるから忘れていたが、あいつは下の名前が田中で、名字はアベノだ!
まさか田中の父親がアベノ元首相だったなんて。

「君たちに渡したい物だよ。」
アベノ元首相はそう言うと、取り出したマスクを、俺らに無理やり着けていった。

俺は絶望の闇に吸い込まれた。


目を覚ますと、またあの天井だった。
俺はまた病院のベッドの上にいた。
しかもしっかりマスクを着けた状態で。

アベノ元首相にマスクを着けられた後の記憶はない。
ただ1つ覚えているのが、俺と田中と田中はマスクを着けられたのに、何故か中島だけはマスクを着けられなかった。

一体何故だろう。
病院のベッドの上で1時間以上、ただその事を考え続け、ある1つの可能性に気付いた。

犬だからか?

そう、中島は田中の飼っている犬(トイプードル)だ。
犬はマスクをする必要がない。
ならばマスクから逃れる方法はただ1つ!
犬になることだ!!

俺は犬になることを心に誓う。


それから15年の月日が流れた。
俺は今、アベノマスクを袋詰めする工場の責任者をやっている。

人間から犬になることが無理だと悟った俺は、大人しく政府の犬になることにしたのだ。


~完~

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