この満面の笑みの遺影は自慢
実家の食卓に小さいテレビがあって、その横には父がいる。庭の花を挿した花瓶とビールのミニ缶を脇に置いてもらい、いつも笑っている。
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朝の通勤電車。
降りるまであとふた駅というところで、膝に置いた鞄からスマホの震えが短く伝わってきた。
あれ?おかしいな。
見ると母からの着信が残されている。
改札を抜け、地上に出てから折り返す。
着信のみでメールは入っていないけど、嫌な感じがする。
数回のコールで母に繋がる。
落ち着いて聞こう、落ち着いて話そう、何の電話やった?
もうええねん、あんた今日仕事で休まれへんやろ。朝、病院から電話かかってきてな、パパの容態急変したから来てくれって。なんか色々言われて一人で行くの怖いから、お義姉さんに一緒に来てもらってもう今病院やねん。たまたま腰痛めてヒデキも家にいたからこれから来るし、あんたまでええで、すぐ良うなるやろし。
あほか。
そういうとこあるよな。
伯母さんと、頼りになる弟さえ来れば私はいらんのやろうけど、そうじゃないやん今、この時期。
このまま一旦会社に行って、事情を話して休ませてもらう、すぐ病院に向かうから、と電話を切る。
母からの着信で震えたスマホを見ると、やっぱりいつも通りサイレントマナーモードのままだ。
これは呼んでるな。
そう思うのがどういう意味か、腹をくくりながら病院へ向かう。
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毎年11月に父と母はふたり揃って日帰りの人間ドックを受けている。
父が入院したのは人間ドックを受けたその日だった。
肝臓に異常値が見つかった父は家に帰れず、その場で緊急入院となった。
翌日見舞いに行くと、身体からチューブを繋ぎ車椅子に座る父がいた。
えらい病人らしい格好やなとちゃかして、せっかくやから記念に、と笑いながら写真を撮った。
上から点滴が落ちてくる管、下に胆汁が溜まっていく管。
人間ドックの前日に会ったとき、なんとなく元気がなく顔色が悪く見えていたのは、元からの浅黒さからではなかった。
あれは黄疸だった。
検査の結果、父に胆管癌がみつかった。
ネットで調べれば答えが出てくるのが辛い。
主治医から受けたイラスト付きの説明と照らし合わせながらサイトを巡る。
こんな時の情報ってむごいな。
弟も、そして父本人も、調べ、知識を得ているはず。
お互いに話さないし、まして母には話せないが、癌のいる場所が悪すぎる。
手術の困難さや術後の生存率を見て、いやいやいやいや父は大丈夫、手術は成功するし、なんやかんや長生きするタイプ、と意識の底上げを意識してやっていた。
本格的な手術の準備が整ったのは年末になったため、一旦退院し、年末年始を自宅で過ごすことにした。
年明けすぐにある私の娘の、父からすると孫娘の結婚式への参列を優先し、手術は先延ばしにしてもらった。
おおよそ1ヶ月ぶりの帰宅。
その夜に父がリクエストした夕飯は、焼き鮭と卵焼き。
いつもの席に座り、久しぶりの自宅ご飯をよろこんでいた。
クリスマスもお正月も何もせず過ごすなんて何年ぶりたっただろう。
いつもは私の家族、弟家族が集い、総勢11人でミニゲーム大会をして賑やかに過ごしていた。
年が明け、結婚式への参列をし、病院へ戻った父には、10時間以上に及ぶ手術が待っていた。
手術着の上にガウンを羽織り着圧ソックスを履いて手術室に歩いていく父の後ろ姿に、行ってらっしゃいと声をかけた。
父は振り向かず右手を上げて手を振った。
まるでリングに向うボクサーのようで、母と見送りながら笑った。
私が父と会話したのはこの日が最後で、この後ろ姿が生きている父の最後の姿になってしまった。
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術後なかなかお見舞いに行けずもやもやしていたが、母から、痛みや発熱もあったが歩く練習も始め、洗面に立ちひげ剃りをするぐらいに回復していると様子を聞き安心していた。
それが容態急変。
術後8日目の朝に、父は私のスマホを震わせた。
持ち直すに違いない大丈夫、よりも、呼んだからには待ってくれ間に合ってくれ、と祈りながら病院へ向かう。
控え室で母たちと合流し、今までの経緯を聞く。
主治医が処置の合間に現状を図解とともに説明し、また戻って行く。
どうやら出血場所の特定ができず、特定しようとすると血圧が下がる、の悪循環になっているようだった。
もう少し頑張らせてください、と対処に向かう主治医を見送る私と弟は落ち着いていたと思う。
胆管癌とわかり調べていた時からじんわりと覚悟してきた「父の死」
いよいよ病室へ通されるときには、最期までしっかり見届けると決め、心に分厚くバリアを張った。
まるでドラマのようだと冷めた部分で思う。
機械と医師と看護師に囲まれる父。
主治医からの説明を聞き、目を覚ましてと泣く母。
その間も休むことなく心臓マッサージをする医師は泣いてるのか、涙か汗かかわからない水滴を落としている。
ようがんばったな、痛かったな、しんどかったな。先生もういいです。という母のことばを待って、処置は終わった。
機械に平行線。
伯母を支えているつもりの私の右手はいつの間にか震え続け、声も出ず泣いていた。
父は患者から、遺体になってしまった。
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繋がっていた諸々の装備を外してもらう間、私達は待合室に通された。
泣き続けてはいられず、これからの段取で慌ただしい。
病室に戻り、父の顔を見つつ入院中の荷物をまとめ、母達は弟の車で先に家に帰った。
お寺さんや葬儀屋さんのこと、父が戻ってきたときのお布団の準備など、よくわかっている母と伯母に任せる。
私は迎えに来る葬儀屋さんの車で、父と一緒に帰ることになった。
それまで父とふたりきりだ。
父の身体をきれいにしてもらう間、もう一度待合室に通される。
主治医が訪れ、納得されるために、身体を開けて原因を調べることもできるが、どうされますかと聞かれた。
そんなことを聞かれるのが普通なのかもわからないし、原因がわかったところで結果は変わらない、もうこれ以上傷をつけなくていい、そうか遺族の納得か、納得はしてる。
いえ、いいですと独断で断った。
ただ、今後の為に原因を知りたいというのであればどうぞ、と返事をすると、主治医は、いえ、それではこのままで、と出て行った。
その後、死亡診断書を受け取り、病室に戻る。
残っている荷物を入れるための袋を探しに、病院内のコンビニへ行こうとするが、父をひとり残して行くのに躊躇する。
ちょっと寂しいかも知れんけどすぐ戻るから、と声をかけて病室を出る。
急いで戻り、父の様子を見る。
変わらずそのままじっとしている。
そらそうなんやけど。
これで目覚めたらゾンビ扱いやし、ゾンビってことはもう元の父ではなくただただゾンビやし、話しの出来る霊としての復活ならいいけどゾンビは退治されるからやめといたほうがいい。
くだらないことを考えながら荷物をまとめ、それでも起きないかなぁと、チラチラ顔を見る。
ようやくお迎えの車が到着したと連絡があり、さぁ帰るよ、と声をかける。
袋に入れられストレッチャーで移動する間も、医師や看護師が付き添ってくださった。
途中の通路ですれ違った作業員たちは、小声で言葉を交わし背中を向けてやり過ごしていた。
彼らにすれば運悪く忌まわしい死体と出くわしてしまった、というところか。
君らどこで働いてると思ってんの。ここ病院やで。そら死ぬ人もおるやろ。
ご遺体と思えるか、死体としか思えないかの差は大きい気がする。
父を車に乗せてもらい、見送ってくださった医師たちに、お世話になりましたとお礼を述べ、病院をあとにする。
葬儀屋さんの運転で、家まで父と最後のドライブだ。
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朝の天気予報を見て鞄に折りたたみ傘は入れていたけども、こんなどしゃ降りにするとはどういうことや父。
病院を出た時は小雨だったのが、家が近づくにつれ激しくなり、車から降ろしてもらい家に入る時がピークにどしゃ降り。
父、もしかして、死んだことに気づいて泣いてるんちゃう?
と、さっそく父をいじって笑える家族でよかった。
次々と決め事がある中で、一番悩んだのが遺影写真選びだった。
父が写した写真はあっても、父の写っている写真が少ない。
母がお勧めしてきた旅先での思い出のツーショット写真があったが、眼鏡をかけた萬屋錦之介風の強面写真だったので却下した。
母よ、明日のお通夜からこの先ずっとこの写真が飾られるのは勘弁してくれ。
家族の写真を撮ることってないな、こんな時に困るんやな、と探していて、突然思い出した。
撮った、撮った、結婚式のときに撮ってる。
スマホの写真ホルダーに結婚式の写真が山盛りある。
お酒も飲んで、孫娘の横で絶好調にご機嫌な満面の笑みでカメラにピースする父がいた。
ナイス、父。お調子者でよかったわ。
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今や一人暮らしとなってしまった母は、その遺影の父に毎日話しかけながら過ごしているようだ。
この写真にしてよかった。
手術の5日前、亡くなる13日前の、孫娘の結婚式で見せたご機嫌な笑顔。
母は毎日、笑顔の父と一緒にいる。
実家にいくといつも、笑顔の父が迎えてくれる。
この満面の笑みの遺影は自慢。
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