シン・ウルトラマン感想/掌
はじめに
見てきました。一言で感想を言うと
「そんなに人間が好きになったのか」
ですね。清々しいまでに人類という種を肯定する映画でした。
ありがとう、とまずは言いたいです。
深い考察は得意な方に任せるとして、私は私なりに、この映画を一度見た者としての感想を書いとこうかなと思います。
当然ですがネタバレありですので、気になる方はご注意を。
「空想」としての「特撮」
私はネタバレとか気にしないタイプので、自身での視聴前に先駆者の皆様のレビューを見ておりました。で、この映画に対する評価でかなり目立った「ヒロインへのセクハラ的表現」は、私にとっては
「必要なのはわかるんだけど、問題視する人はするだろうね」
という感覚でした。
なぜ必要だと感じたか。それはこの「空想特撮映画」の中で、リアリティとして大切にされていたのが映像的な描写ではなく、人間の感覚だったから。
スタジオカラーの十八番である「日常に入り込む非日常の描写」は今作でももちろん健在なのだけど、今作は軸足を「空想」に大きく移していたように感じられました。
今回現れた非日常、特に外星人ザラブ以降のパートでは、リアリティよりも画としての面白さ―巨人がビル群に立ち、空を飛び、光線を放つ楽しさ―を重視していたように、私には見えました。そして、それで良かったなと安堵したのは、ザラブが八つ裂き光輪でぶった切られたシーン。
あの場面に「生物としてのリアリティ」を求めていたら、おそらくザラブはウルトラマンAのバーチカルギロチンを受けたメトロン星人のように臓物と体液をぶちまけ、直下にいたウルトラマンと都市はそれを浴びて、惨たらしく汚れていたことでしょう。
しかし、そうはならなかった。
「ベータシステムを用いた肉体は全身が均一となる(うろおぼえ)」という答え合わせ的な設定は置かれていましたが、あのシーンはリアリティよりも映像としての美しさを優先した、この映画のスタンスを象徴していたように思えました。
最も身近なふたつのリアル
映像的なリアリティの代わりに配置されていたのが、誰にも馴染み深い人間の五感の描写。
それは体臭であり、インクの染みであり、ストレスを紛らす酒や菓子の味であり、メインキャラクターの周囲で交わされる日常的な噂話であり、そしてなにより、浅見の掌を通じた手触り。
神永の頬を張り、ベータカプセルを握る。自身と同僚の尻を叩き、目覚めた神永の腕を掴んだその感触は、人にとって何よりも信頼できるリアリティでしょう。
「空想特撮映画」の中で、浅見の手は現実の側に打ち込まれた錨なのかな、というのが、一連のシーンに対する私の印象でした。
巨大浅見の描写は、その後にメフィラスが「下劣な行為」と断じていることから、視聴している私達の反応まで含めて「愚かで幼い人類」を実感させる演出なのだろうと理解しました。
だから不快に感じるのは当然だし、それを狙ってもいるのでしょう。
とはいえ「ウルトラマンでそんなの見たくなかった」という人がいるのも、まぁそうだよねと思います。それでいいと思います。
私たちは優れた個ではなく、互いに寄り添う群なのですから。
虚実を織り交ぜ唆し、自滅へと導くザラブ。
他者を自己の利益の為だけに弄ぶメフィラス。
そして、全体の秩序の為に少数を滅するゾーフィ。
彼ら外星人のビジュアル的な表現は「空想特撮」によるものだったけれど、彼らの理念は私達と非常に近しい、もうひとつの身近なリアルでした。
そんな人類の一面を映す鏡たちに対して、
「人間は人間として存在していいんだ。そうあってほしいんだ」
と立ち向かったウルトラマン。
彼の主張は、外星人たちの強固なリアルに比べて、とても儚く、だからこそ美しく感じました。そして浅見は、そんな彼の尻を叩きました。
人のリアルな感触として、彼を後押しするために。
最後に
「なぎさの地球」という合唱曲をご存じでしょうか。
その中に、こんな歌詞があります。
映画を見終えた帰り道、私はこの歌を思い出していました。
手触りは、思想にも勝り得るのだと。