15年前、アメリカで、子どもの頃から憧れた夢がふっとんでいったときの話。
マイペースとは、自分のペースをもっている人のことをさす。
どうやら私は、マイペースさがゆえ、夢をあっけなく手放してしまったようだ。
⚽ ⚽
時は2002年まで遡る。
私が生まれ育った場所は、Jリーグクラブ「鹿島アントラーズ」のホームタウンだ。
友達の家族が熱狂的なサポーターだったこともあり、子どものころから、サッカー観戦はもちろん、練習場のクラブハウスにも連れて行ってもらっていた。
前年の2001年は、鹿島アントラーズが「ヤマザキナビスコカップ」「Jリーグ」「天皇杯」といった名だたるタイトルを独占し、【3冠】という偉業を達成した年でもあり、街は活気づき、鹿島アントラーズのクラブカラーである【深紅】に染まっていたようにも思えるほどだった。
そんな街にいてサッカーにのめり込まないわけがない。しかも2002年には、大イベントが開催されるってタイミングだ。
ホームゲームがある度にサポーターズシートで観戦して、大声を出して応援して、相手チームが攻め込んできたら「ブーーーーー」ってブーイングして、ゴールまでの一連の流れは必ずメモ帳に記録していた。
当時私が推していたのは、中田浩二選手(現:同クラブのクラブ・リレーションズ・オフィサー)。
ミッドフィルダー(ボランチ)もディフェンダー(センターバック、左サイドバック)もできる選手で、左サイドバックの中田浩二選手は、特に好きだった。
というのも、サイドバックを駆け上がってセンタリング!からのボレーシュートでゴール!という流れが非常に好きだからである(笑)。観ていて、スカッとして気持ちがいい。
何年の時のことだか忘れてしまったが、カシマサッカースタジアムでの名古屋グランパス戦。当時、鹿島アントラーズに所属していた青木剛選手が、強烈なボレーシュートを放った時があった。ゴールとはならなかったものの、その威力がすさまじすぎて、それ以降、青木剛選手推しになって……って、サッカーの話をすると止まらなくなるので、このくらいにしておこう(笑)。
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そのくらいサッカー大好きっ子だった私は、2002年6月、通っていた中学校の授業が終わるなり、日本戦の中継に間に合うように自転車をかっ飛ばしていた。
そう。
日韓共同で開催された「2002 FIFA World Cup」の日本戦だ。
日常があんなにも鮮やかに色づくなんて、ほんと、「スポーツは祭典」という言葉の意味がよくわかる。また、日本で開催してほしいなぁ。
とまぁそんなこんなで、サッカーの試合を見ているうちに、私はとあるひとりの男性に心を奪われていた。
その名は、フローラン・ダバディ氏。
言っておくが、彼は選手ではない。監督でもない。
「通訳士」だ。
当時のサッカー日本代表監督であるフィリップ・トルシエ氏のそばで、彼の熱さそのままに通訳していたのがダバディ氏だった。
そもそも私は英語が大好きで、小学低学年のころから英語塾に通っていた。将来は、英語を使った職業に就きたいと、漠然とそう思っていたのだ。
そんななかで出逢った、トルシエ監督の魂が乗りうつったかのような、ダバディ氏の通訳。
ただ単に言葉を訳すだけではないのだと、通訳士は想いも訳すお仕事なんだと、深く深く、感動したのを覚えている。
🖊 🖊
それから、高校生になった私は「通訳士」になることを夢に掲げ、進学したい大学を決めた。
親からは、大学費用は奨学金を使うようにということと、自分でやりくりできるところにするようにと言われていた。
そうなると、学費面から考え、自ずと国公立になってしまうのだが、私が行きたいと思ったのは私立。
通訳・翻訳コースのある大学だった。
他の私立に比べれば、学費は高くはないものの、果たして自分でやりくりできるのだろうかという不安があった。
でも、それでも行きたかった。
ダバディ氏のようになりたかった。
親には、泣きながら説明&説得をしたような記憶がある。なんて言われたかは覚えていないが、その大学に行けたということは、背中を押してくれたんだろう。
📝 📝
こうして無事に大学に入学した私は、勉強に勤しむ。
なぜなら当時その大学には、成績優秀者に対して、アメリカ・カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)での奨学研修費用を負担してくれる制度があったからだ。
授業を欠席しないとか、課題はきっちりこなすとか、そういう基礎的なことをコツコツこなしていただけのような気もするけれど、頑張っていたと思う(笑)。
もちろん、キャンパスライフを楽しむことも忘れていない。
サークルとは違うけれど、学園祭実行委員会に入って、毎年秋に開催される学園祭の準備もしながら、夏はみんなで合宿に行ったり、バーベキューしたり、遊園地に行ったり。
学園祭の時期が近くなると、準備のために学校に泊まり込む日も多かった。学園祭を終えると、付き合うカップルがいたりして【学祭マジック】なん呼んでいた(笑)。青春じゃ~ん!!!!!
ってな感じで(笑)、いたって普通の大学生活を送っていたら、2009年の夏の約3週間、私はUCLAにいた。
🧳 🧳
海外に行くため、初めてクレジットカードを作ったし、大きいキャリーケースも買った。渡航当日、当時付き合っていた彼氏が見送りに来てくれて、離れるのが寂しくて泣いた(笑)。
そんな風に日本を発って、初めて足を踏み入れたアメリカの地。
空に雲がなかったため、初めてアメリカに着いて思ったのは、「海外の空は雲がないのか?」だった(笑)。
それから始まった約3週間のアメリカの暮らしは、とても刺激的だった。
テレビや写真でよく見ていたハリウッドサインも見たし、ディズニー・カリフォルニア・アドベンチャー・パークにも行ったし、ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドにも行った。
ザ・アメリカを堪能した。
(もちろん勉強も笑)
そんな生活の中で、気になり続けていたことがあった。
学校近くの広場にあった時計の時間が、現時刻をさしていない。
20分くらい遅れているのだ。
直してほしいと、ずっと思っていた。
この時から、私の几帳面さの片鱗が顔をのぞかせていたんだなぁと思う。
社会人になってから気づいたことだが、私は、何か物事を進める時には必ず、進行スケジュールを立てないと気が済まない性格らしい。他にも進んでいる案件やプライベートの用事もあるから、何が自分のタスクであるのか、先々のこともなるべく早めに把握しておきたいのだろう。
だからなのか、アメリカ留学中に起こったある一件で、私はあっけなく夢を手放してしまった。
🚌 🚌
それは、ショッピングに出かけた時のこと。
バスに乗ろうとバス停で待っているも、バスが、目の前を通り過ぎ、その50m先あたりのバス停サインもないところでとまったことがあった。
?????
もちろん私は、戸惑いながらも、急いで走ってバスに乗った。
すると今度は、車内の電光掲示板らしき部分に、停留場所が表示されていないときた。
ん?????
ココハドコ?
ワタシハダレ?←
えーどこで降りればいいのー!?!?!?
幸いにもひとりで行ったわけではなかったので、なんとか目的地に辿り着けた。
この一件で、留学を終えて日本に帰ってきた時にこう思ったんだ。
「日本で仕事したい」
「通訳士は諦めよう」
こういう思考回路だ。
通訳士=海外で仕事=バスがフリーダムすぎるこの地で仕事=私には無理
これは完全に私のエゴであり、アメリカのフリーダムさは、なにも悪くない。「郷に入っては郷に従え」が、私にはできなかっただけだ。
サッカーが大好きで、英語が大好きで、それがキッカケで「大学」も「留学」も選んできた当時の私、そして通訳士さんにも謝りたい気分だ。
「こんなことで、あっけなく夢を終わらせてごめん」
「生半可な気持ちで通訳士を目指して申し訳ありません」
と。
実はこの一件以降、海外旅行もしたくなくなってしまった。どんだけ根に持ってるんだって感じなのだけど(笑)。
でも、こんなことを書きながら気づいたことがある。
私、日本のバスも苦手だ。
時間通りに来ないから(笑)。
とどのつまり、自分のペースをかなり大切に思っているってことだ。
⌛ ⌛
しょーもない理由でふっとんでいった夢(笑)。
0か100の決断をしがちな私らしいなぁって、今回振り返ってみてそう思った。だから後悔はない。
それに、通訳士は諦めたけれど、そこを目指して入った大学で、「言葉」が好きなんだってことに気付けた。それだけで十分。だって、今「言葉」を使った仕事をしているから。
仕事の話は、いつか書いてみたいと思っているので、また今度(笑)。
ちなみに、見出し画像に使っているのは、アメリカ滞在時の一枚。とてもよく撮れていて大好きな写真だけれど、元データを無くしてしまって......。
mixiにアップしていた写真を保存したものの、画質が悪いです。笑
それでも、夢を追いかけていたころの自分の熱量が込められているのか、この写真には奮い立たされて仕方がない。
何事もそうだけれど、技術以上に、想いが乗ったものは人の心を揺れ動かすと思います。
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