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下行パッシング・ディミニッシュの機能分析とトリスタン和音

皆さん、下行パッシング・ディミニッシュはお好きですか?

下行 P.D. の代表例。下のローマ数字は「芸大和声」の記号です

今回は下行パッシング・ディミニッシュ(以下「下行 P.D.」)の機能分析と、さらにその原理から導かれる新しい和音を紹介します。



”和音の意味” を分析する

それでは下行 P.D. の代表例である ♭IIIo7 および ♭VIo7 の機能分析を行っていきます。
すなわち ”和音の意味” を明らかにしていこうということです。

従来の ♭IIIo7 の解釈

♭IIIo7 の和音

まずは最も典型的な下行 P.D. である ♭IIIo7 における従来の解釈を見ていきましょう。

  • ダブルドミナントの変形で、後ろにツーファイブを挿入した形

  • トニック・ディミニッシュの転回形

  • 独立和音として分析できない偶成和音

上ふたつは構成音を根拠にした解釈ですね。
まずダブルドミナントは確かに構成音がよく似ています。
しかし後続はツーファイブですから、これがダブルドミナントとして機能しているかどうかは疑問が生じるところです(ツーファイブが基本であるジャズではあり得るかもしれませんが)。

次はトニック・ディミニッシュ
こちらは構成音が全て一致します。
後続がツーファイブですから、トニック・ディミニッシュがトニック機能だとすれば T → S の接続が成り立ちますね。

最後は偶成和音
「これは各声部の動きによってたまたま生じたものだから、独立和音として分析しないぞ」ということになります。
というのも上行 P.D. とは異なり、短調属九の根音省略として解釈できないからなんですね。

しかし見方を変えれば、より機能和声的な分析を行うことが可能です。

♭IIIo7 の根音は ラ である

結論から言うと、この和音の根音は  だと考えられます。
※ 「ドレミファソラシ」は音名ではなく階名として用います。

根拠は第一に、前後の文脈です。
♭IIIo7 はふつう IIIm7IIm7 の間に挟まります。
根音を であると見なせば、この進行は IIIm7 → VIm → IIm7 の派生であり、これは強進行の連続であると見なすことができます。

さらに VIm を変形することで、♭IIIo7 を導出することが可能です。

VIm が ♭IIIo7 に変わっちゃったー!?

まずは長六度を付加。
そして第五音を下方変位。
これを第二転回形にしてあげると、♭IIIo7 の出来上がりです。

というわけで ♭IIIo7 は元々強進行するマイナーコードだったということがわかりました。
したがって、この和音はトニックとして機能することになります。

♭IIIo7 と ♯IVø7 の類似性

この ♭IIIo7 の性質として、♯IVø7 との類似性が挙げられます。
♯IVø7 も同様に VIm を変形させて作ることができるのです。

♯IVø7 を作るのは easy

 こちらは第六音がベースに来る、第三転回形です。
この和音もトニック機能と説明されることがありますから、 が根音というのも頷けるかもしれません。

♭IIIo7♯IVø7 の後続和音はそれぞれ IIm7IVΔ7 が典型であり、機能的に見ても T → S の繋がりが一致することがわかります。
コードネームを ♭IIIo7 の代わりに ♯IVo7/♭III と表記すれば類似性がわかりやすいかもしれないですね。

ちなみにダブルドミナントの文脈でも ♯IVø7 の和音は現れます。

♯IVø7 の二面性?

左は先ほど導出した T 和音としての ♯IVø7
右はダブルドミナントを変形して現れる ♯IVø7 で、こちらは S 和音です。

そうなると同じ ♯IVø7 の和音に機能がふたつあるように見えてきますよね。
ではこの和音は機能が曖昧なのか
いいえ、決してそういうことではありません。

下の和声記号を見ればわかりますが、そもそも両者は全く異なる別の和音です。
構造が同じになったのは結果論に過ぎません。
それを我々は和音の構造だけを見て、♯IVø7 という単一の記号を振っているのです。

和音の機能、すなわち ”和音の意味” というのは、構成音からひとつに定まるものではありません
それを分析するためには和音の構造だけでなく、前後の文脈を含めて観察する必要があります。
それこそが本来の機能和声なのです。

♭VIo7 の根音は レ である

さて次は ♭VIo7 の場合です。
これも先ほどと同様に IIm の変形として解釈することができます。

♭VIo7 の作り方

全く同じやり方でできましたね。
つまり ♭VIo7 の根音は ということになります。

しかし ♭VIo7 の場合、V7 の変形としても解釈が成り立ちます。

V9 の可能性も出てきた

この和音はバスの ラ♭ が半音下がれば、後続の V7 と一致します。
それゆえ和声理論では、これをバス音が転位した偶成和音であると見なし、独立和音として扱わず後続の V7 と合わせて単一の V7 として分析を行います。

事実上、第 4 転回位置を認める必要はない。バスに置かれた第 9 音は、たんに転位音(非和声音)として解釈するのが適当である。(Ⅲ巻 p.292)

音楽之友社『和声 理論と実習 Ⅰ』p.89

とはいえこれは古典派理論の慣習に過ぎません
ここではこれを独立和音として分析します。

よってこの和音は IIm の変形であると見なし、サブドミナント機能、特にプレドミナント機能を持つものとします。

機能分析まとめ

  • 下行 P.D. の本質は強進行するマイナーコードであり、この和音は長六度付加、第五音下方変位、第二転回形により現れる。

  • ♭IIIo7 はトニック、♭VIo7 はサブドミナントとして分類可能。

  • ♭IIIo7♯IVø7 と類似した性質をもつ。

  • 本来の機能和声において、構成音だけで和音の機能を定めることはできず、常に前後の文脈を含めて観察する必要がある。


下行 P.D. の応用

ここまで下行 P.D. の和音を機能分析してきました。
しかしそれはまだスタート地点に過ぎません。

ここからはこの分析結果を実践に応用することを考えていきます。

メジャーコード化

まず下行 P.D. の本質は強進行するマイナーコードであるということがわかりました。

すると簡単なアイデアがひとつ思い浮かんできます。
これをメジャーコードにしても面白いのではないか?

メジャーコード化

メジャーコード化して同じ手順を実行してみるとこうなります。
VI を変形して出来上がったのは ♭IIIø7
ディミニッシュがハーフディミニッシュに変わるんですね。
後で説明しますが、これもちゃんと使える和音です。

増六和音との関係

この和音の構成音は下から増二度、増四度、増六度です。
増六度の音程を有する和音は総称して増六の和音と呼ばれます。

よく知られた増六の和音に「イタリアの六」「フランスの六」「ドイツの六」の 3 つがあります。

代表的な増六和音「ビッグ・スリー」

これらは主にダブルドミナントとして用いられ、増六度を成す ラ♭ファ♯ はそれぞれ共に へ解決するのが典型です。

まずはその中でもフランスの六に注目してみます。
下行 P.D. (①) と先ほどの和音 (②) を、ルートを揃えて並べてみましょう。

♭VI 度に揃えて比較

こうして並べてみると半音ずつの違いがよく分かります。
先ほどの和音は下行 P.D. とフランスの六のちょうど中間にいたわけですね!

これはコードネームを精密に書けば分かりやすいのですが、元となった和音が IIm6II6II7 かの違いということになります。

さてこの新しい増六和音、実は既に「トリスタン和音」という呼び名が与えられています。

リヒャルト・ワーグナーの楽曲『トリスタンとイゾルデ』で象徴的に用いられているのがこの和音です。

また他には「イギリスの六」「オーストラリアの六」といった呼び名も提唱されているようです。

「イギリスの六」は音楽理論家が祖国の名をとって名付けたものですね。
「オーストラリアの六」も同様でしょうか?

ここでは実例に敬意を払いトリスタン和音と呼ぶことにします。

Blackadder Chord との関係

またこのトリスタン和音は Blackadder Chord を変形することでも導出することが可能です。
これについては先行研究がありますので、詳細はそちらをご覧ください。
「ハーフディミニッシュ型」としてこの和音が紹介されています。

Blackadder Chord は増六和音としての側面もあり、J-POP で多用されているという点から「日本の六」と呼ばれることがあります。
ここではこのような増六和音としての Blackadder Chord を日本の六と呼ぶことにします。

さてこのトリスタン和音、日本の六とも半音差で繋がっています。
ここまでの関係性をまとめてみると……

じゃーん

こんな感じで和音のネットワークを作ることができます!

名前の由来となった『トリスタンとイゾルデ』においてはフランスの六の色が強いと思われますが、実は同じ距離感のところに下行 P.D. と日本の六もいたんですね。

またトリスタン和音の他に、下行 P.D. とフランスの六の中間には IIø7 の二転が、下行 P.D. と日本の六の中間には ♭VII7 の三転が現れます。

ネットワークの拡張

さて、このネットワークには軸がふたつあります。
シ♭ - シ -ド の軸と、ファ - ファ♯ の軸です。
そうなると、まだ に一切手を加えていないことに気づきます。

まずドイツの六は、フランスの六の ミ♭ に吊り上げたものと見なすことができます。
これを踏まえて レ - ミ♭ の軸を追加し、これらの和音の を全部吊り上げちゃいましょう。
これは一体、どうなっちゃうんだ~!?

こんにちは

ネットワークが三次元に拡張されました!

見慣れない和音がたくさんありますが、重要な和音はそこまで多くありません。
ここでは特に重要な和音をひとつだけ紹介します。

吊り上げトリスタン和音

トリスタン和音とドイツの六の中間

こちらはトリスタン和音の ミ♭ に吊り上げた和音。
トリスタン和音とドイツの六の中間にあたります。
構成音は下から増二度、完全五度、増六度。
マイナーセブンスとエンハーモニックです。

このマイナーセブンスとエンハーモニックな増六和音は「シドニーの六」という呼び名が提唱されているようです。

英語版 Wikipedia のトークで言及されているのを確認できます(増二度か短三度かの違いはありますが)。
発言者の思想はさておき、この呼び名は「オーストラリアの六」と同じ人が提唱したものでしょうか?

ここではこの呼び名を採用しません。
独自に「吊り上げトリスタン和音」と呼ぶことにします。
もしより良い呼び名が見つかれば、それを積極的に使っていこうと思います。

実践例

というわけで、これらの和音を使って簡単に一曲書いてみました。
校歌や軍歌といった歌モノを想定した楽曲です。

トリスタン和音実践例

イントロ 3 小節目は ♭VI 度のトリスタン和音。
B メロ 2 小節目は ♭III 度のトリスタン和音です。

増六和音は ♭VI 度で使うのが典型ですが、♭III 度でも問題なく使うことができるとわかります。
今回は増六度にあたる ド♯ をあまり目立たせていないので、聴こえ方としては下行 P.D. の色が強いかなという印象です。
もしこれを ♭V 度や ♭II 度で使用する場合は、日本の六の色を強く出すということも考えられます。

そしてサビ 3 小節目は ♭VI 度の「吊り上げトリスタン和音」。
後続和音が(長調の)I の二転になっているので、ミ♭ の部分を レ♯ と綴りました。
この和音は レ♯ を含んでおり、Vaug の色が強く感じられます。
この曲の場合は予め何度か Vaug を登場させているので尚更ですね。

根音の が上方変位した結果、精密なコードネームは ♯IIm(𝄫5,♭13)/♭VI と非常に複雑なものになりました。
重減・重増音程に出くわすことって実際にあるんですね。
簡素化するのであれば VII/♭VI のようにウワモノとベースを分離させるか、あるいは異名同音を読み替えて単に ♭VIm7 とすることが考えられます。

ベースの ラ♭ は半音下行して に繋がり、ウワモノの シ - レ♯ - ファ♯ は半音上行して ド - ミ - ソ に繋がるという、強傾性音を 4 つも含んだとても緊張感の強い和音です。
単体で鳴らせばマイナーセブンスなのに、文脈の中でここまで緊張した和音になるのは面白いですね。

ちなみに似たような和音に「ティルの六」というのがあります。

リヒャルト・シュトラウスの楽曲『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』で用いられている増六和音です。
これも Vaug 感の強い増六和音ですが、こちらはハーフディミニッシュとエンハーモニックです。

これらの和音は単体で鳴らせばハーフディミニッシュやマイナーセブンスと変わりません
それを文脈次第でオーグメントらしく聴かせることも可能なんですね。

応用まとめ

  • 下行 P.D. の原型となるマイナーコードをメジャーコードに変更すると、ハーフディミニッシュとエンハーモニックな増六和音が現れる。

  • その和音は下行 P.D. とフランスの六、さらに日本の六とのちょうど中間に位置し、トリスタン和音と呼ばれる。

  • トリスタン和音は従来の ♭VI 度のみならず、♭III 度でも問題なく利用可能。

  • トリスタン和音を一音変化させると、マイナーセブンスとエンハーモニックな増六和音が現れる。

  • 単体で鳴らせばハーフディミニッシュやマイナーセブンスと変わらない和音であっても、文脈次第でオーグメントらしく聴かせることが可能。


最後に

増六の和音と Blackadder Chord の関係性については、これまでたくさん論じられてきたかと思います。
今回はそれに加えて、下行 P.D. の和音も本質的にはこれらと類似したものであるということが明らかになりました。
これは下行 P.D. の従来の解釈に留まっていたら絶対にできなかったことです。

さらに下行 P.D. の和音とトリスタン和音との間に強い関係性を見出し、トリスタン和音の用法を拡張することにも成功しました。
さらなる応用の可能性としては、これを別の転回形で使用したり、あるいはエンハーモニック性を利用して転調したりと、まだまだたくさん考えられます。

またトリスタン和音を半音吊り上げた「吊り上げトリスタン和音」も非常に興味深い和音でした。
この和音は「シドニーの六」の他に呼び名が提唱されているのかどうか、またクラシックなどで用例は見つかっているのか、情報をお持ちの方がいれば教えていただけると幸いです。

そしてネットワーク上にある他の和音で、当記事で深く掘り下げなかったものの中にも、もしかしたら意外な使い道が見つかるかもしれません。
一音一音と向き合って、色々組み合わせを試してみるのも良いかなと思います。

試してみてね

何はともあれ、トリスタン和音と吊り上げトリスタン和音はとても魅力的な和音です。
ぜひ使ってみてください。

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