忘却を繰り返す私たちは ──星野源『光の跡』コメンタリーと生活の保存
高校からの仲である小林と髙田とは、社会人になってからも月に一度、かならず3人でお酒を飲んでいる。
朝7時、ハイボール特有の酒気がまだ微かに残っている中で帰宅し、スマホをひらくと、「iCloudストレージが上限に達しました」という通知がロック画面に表示されていた。こんなことは今までも何度もあるから、はいはいすみません…といつものようにカメラロールの整理をしようとすると、一番下に見覚えの無い写真、しかも連写したようで、背景が全く同じ写真が10枚つらなっていた。小林と髙田がひと気の無い夜の道で残像をつくりながらはしゃいでいる写真。昨晩の二軒目で終電を逃したあとの、髙田の家に向かう道中で撮ったものだ。
わたしのiPhoneは型が古いから、映る夜空がぼそぼそしている。その空の下にはこれまた油絵のように解像されたイチョウの木々があり、画角の右上には東京タワーの根っこが映り込んでいる。
小林と髙田は一枚一枚全く違う表情と体勢で笑っていた。10枚中8枚は、ふたりとも宙に浮いていて、表情も絶妙に気が抜けていて、水で戻したお麩を思わせた。身に付けているつやつやとしたジャケットやショルダーバッグは彼女たちより少し遅れて宙に浮き、一方はストレート、もう一方はナチュラルパーマのロングヘアたちは、夜に潜む微かな光を吸収したり反射したりして、小さな星をめいっぱい毛先に宿らせている。彼女たちのからだのすべてが、愉快そうに残像をつくっていた。
なんていとおしいのだろう、とキッチンで冷水をあおりながら眺めた。そこに映る2人のことも、その2人の笑みを絶対にとりこぼしてやるものかと頼りない意識のなかでもその世界を保存しようとした、わたしのことも。
星野源さんの『光の跡』のMVに収録されている公式コメンタリーで、星野さんはこのように話していた。
カメラロールには4000枚もの写真や動画データがあって、そこにはわたしの生活や非現実的な空間、感情の具現として写しているものなど様々な形をしたこれまでの体験がある。
そのとき鼻をくすぐった匂いや、髪の長さによって変わる首元の温度、何をするでもなく通っていたカフェのコーヒーの酸っぱさ。被写体を思い出すというよりも、そのまわりにあった有象無象がごごごごと音をたててせり上がり、そのころの生活のかたちが、わたしの体温に戻ってくるような、そんな心地がする。
恋人の住むアパートは、街から少し離れたところにある。
賑やかさから背をむけて歩く道は階段や坂ばかりで、アパートに着く頃には、さっきまでいた街全体を見渡せるくらいの高さにまでなる。
アパートの最上階(といっても3階)にある部屋のドア前で振り返ると、そこには何百、何千もの生活たちのつむじがあらわになっていて、覆いかぶさる空の青や桃や白があって、奥のほうで静かにふるえる地平には、富士山がうすく頭を見せている。
わたしは、毎日この景色を写真として保存している。ときたま部屋のドアを背にして10分ほど考えることもある。空の様子は毎日当たり前に違うけれど、それと同じくらい、見渡す限りの生活ひとつひとつも毎日絶えず変化していること。どこかの娘は大学受験に合格し、どこかの会社員は今朝布団から起き上がれなくなる。どこかの猫は飼い主のいない場所で夜明けに息を引き取り、どこかの家庭菜園ではミニトマトがぷりぷりと実る。
こわい、と思う。全く無関係なところで変わりゆくもの生活たちがひとつの視界に全て映り込むことが。とてもこわい。そしてとても、心強い。今世に生まれ落ちた全員が、それなりに重量のある長くて途方もない人生というものをやってみていること。体験している誰もが初めてのことであるということ。
ドアにもたれかかって、まったく同じ画角で、みるみる変化してゆく生活たちをかしゃりかしゃりと毎日保存する。写っているものだけの記録では、決してないから。
つめたい夜のあいだで、たしかに3人の体温と高揚がそこにあった。煌々としたローソンに入り、それぞれシュークリームをひとつずつ買う。髙田の住むマンションに着くや否や、三人とも床と混ざり合うように眠った。朝8時頃にぱちんと目が覚め、社会人の体内時計になってしまった寂しさと床に接触している体の側面の痛みを感じる。
その日、髙田は夜勤で、私はもともと休み、小林は11時には出勤しなければならなかった。小林を先に見送ることにした。12月初週ということもあって、もしかしたら年内に会えるのはこれで最後だろうかと考えがよぎったとき、
「よいお年をとは言わないよ」
と小林が吐き捨てた。髙田とわたしは、台詞がくさすぎるなあと笑い、年内のうちにまた集まる予定を立てた。
あと何回、君たちとこうして集まれるだろうか。わからないから、わたしはまたこの幸福な瞬間を、気を抜くとすぐ指先のあいだから逃げてしまいそうになるいとおしい時間を、できるかぎり残していこうと思うのだ。