『僕が消えた日』短編小説
『僕が消えた日』
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「おばあさん……!」
仕事で約一年間、ホテル暮らしをやむなくしていた僕には、久々の帰郷だった。当然、冷蔵庫の中はもぬけの殻。社会の歯車は一時的な休暇に意気揚々と車のエンジンをかけてスーパーへと向かった。
帰り道に、偶然、見知った顔の貴婦人が花壇の手入れをしていたものだから、思わずウィンドウを開けて声を掛けてしまったのだ。
「ハイ、なんですか」
「お久しぶりです! 一年ぶりですかね、今日は天気がいいですね」
「……すみません、耳が遠くてもうよく聞こえないのですわ」
僕としたことが、年配者への配慮が欠けていた。ウィンドウから半身を乗り出して今度は少し大きめの声でゆっくりと話すことにした。
「あぁ、大したことじゃないですから」
「どうかされましたか?」
「いえね、トタン屋根の修理が済んだようですね?」
おばあさんの庭から縁側に向かって見事に張られたそれを指差しながら言った。すると、おばあさんはこう答えた。
「ハイハイ、おかげさまで業者の方にすぐ来ていただけてね、こない元通りですよ、ハイ」
ふんわりと、貴婦人の柔らかい頬が膨らんだ。
「それは良かった……! 昨年の台風はびっくりしましたね。まさかあそこまで酷くなるとは」
「えぇ、ほんとに」
「あれからご近所の皆さんもご無事のようで、ホッとしました」
「はぁ……」
急に怪訝な表情を見せ、おばあさんは動きを止めてしまった。急にどうしてしまったのだろう。
「あの、なにか失礼なことを言ってしまったでしょうか?」
「いえ、あなたのお名前が何だったかなと思って」
あぁ、そんなことか。しばらく会わないうちに名前を忘れるなんて、よくあることだ。まったく、ヒヤヒヤさせられた。
「アハハ、戸賀(とが)ですよ。そこの小路(こみち)を曲がって二番目の家に住んでる者です」
おばあさんはいまいちピンと来てないようだった。エピソードを混じえて話せば、芋づる式に僕を思い出してくれるかもしれない。
「……昨年の台風のときに、おばあさん家(ち)の吹き飛ばされたトタン屋根を回収した、戸賀です」
今度こそは、と期待を込めて伝えたつもりだったが、依然として良い反応は得られなかった。
その後、別のご近所さんに事情を話したところ、おばあさんは今年に入って物忘れが激しくなっているらしく、説明しても僕のことを思い出してもらえなかったのはそのためだと理解するに至った。
家に帰った僕は、冷えきったベッドの隅っこで膝をたたみ、子ヤギのように震えるからだを抱きかかえた。
僕は、もうおばあさんの人生に存在しない。
誰かに忘れられることが、こんなに堪えることだとは知らなかった。
ふいに携帯電話が鳴った。会社からの呼び出しだった。皮肉なものだ。あんなにも嫌だったコール音に救われる日が来るとは……。
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