ケイスリー代表の幸地です <第3回:創業から5年。大事だった3つの決断>
ケイスリー代表の幸地正樹です。5回にわたり、ケイスリー創業にまつわる話を綴っています。
今回は、2016年3月の創業から5年間を振り返り、特に大事だったと思う3つの決断についてお話したいと思います。どれも、当初には想像もしていないことでした。
(海の見える沖縄の自宅兼仕事場にて)
1つめ:森山を迎える(2017年7月)
現取締役CFOの森山と初めて会ったのは、ケイスリー創業直後に1泊2日で開催したSIB勉強会でした。その後、定期的に広島県へ一緒に通い、SIBモデル事業の立ち上げに漕ぎつけました。それを機に、森山はケイスリーに参画します。けれどそれは、私にとって意外でもあり、同時に不安でもありました。
(森山。いつも先を見据えている)
意外というのは、そもそも森山は、国内外で金融ビジネスに携わり、自身でインパクト投資や複数の事業立ち上げ・売却も経験しており、ケイスリーに加わらずとも、他に活躍の場がたくさんあると感じていたからです。そんな中で、彼は「市民本位の行政サービスを実現したい」という想いからケイスリーのメンバーとして加わるという選択をし、私は「本当にいいの?」と思いつつ有難く受け入れました。
そして不安というのは、森山がいわゆる「コンサルタント」ではないことです。私はもともと行政専門コンサルタントで、ケイスリーはコンサルティング会社として立ち上げました。でも彼は、そこにコンサルタントとして入って売上を上げる立場を前提にしていませんでした。コンサルティングを生業としながら、まだまだ収入も不安定で(私自身の給料すら支払えないことも珍しくなかった)、翌年の見通しも立たないような組織がそうした人材を第2号社員として迎えることは、普通ではない決断だったと思います。
最初こそ広島のSIB案件組成を一緒にやってきましたが、私は、彼が持っている豊かなアイデアや経験、ネットワーク、好奇心を活かして、新しいことをどんどんやってほしいと思いました。具体的な何かが見えていたわけではなかったですが、それが、コンサルティングの枠を超えていくこと、ケイスリーの可能性を拡げていくことに繋がるという予感がありました。
現在のケイスリーが、私の当初の想像を超えるかたちで成長しているのは、創業間もない頃に、森山を迎えるという判断をしたことが大きかったと感じています。
2つめ:投資を受ける(2020年3月)
ケイスリーは2020年3月、1.9億円の資金調達をしました。創業して初の出資受入れで、投資家は、モバイル・インターネットキャピタル(MIC)株式会社です。
これも、創業当時には思ってもいないことでした。
目下ケイスリーは、コンサルティング事業に続く2本目の柱として、「BetterMe(ベターミー)」という行政向けプロダクト(GovTech)に力を入れています。これは、行動科学と機械学習といったテクノロジーを用いて、行政から住民へのコミュニケーションを最適化し、人々の行動変容を通じて地域の課題解決をめざしていくものです。
もともと、この原型となるアイデアは、2019年初め、森山が、交流のあったアクリート社の田中社長と対話する中で生まれたものでした。(同社とは、2019年3月に業務提携)
その後、4月に厚生労働省がモデル事業の公募を開始。それを受けて、私が運営支援する沖縄県成果連動型推進プラットフォームで応募したい市町村を呼びかけたところ、浦添市が「大腸がん検診の領域で取り組みたい」と手をあげ、一気に話が具体化しました。3者共同で、5月にモデル事業へ応募、7月に協定締結して事業をスタートさせました。
さらに10月には、世界で2,000社以上に投資をするシリコンバレーのベンチャーキャピタル(500 Startups)と神戸が共同開催するアクセラレーションプログラム「500 KOBE ACCELERATOR」に採択され、プロダクト開発を本格化させます。
(厳しいプログラムで磨きがかかった開発チーム)
これは、私がずっと追いかけてきた「成果」を高める取組みと、森山が導引した行動科学や高度なデータ分析に関する知見とが交差し、ケイスリーの新たな領域が拓かれる瞬間でもありました。そしてその頃から、資金調達も現実味を帯びてきたのです。
とはいえ、外部の投資家から資金を受け入れることは、大きな決断でした。
ケイスリーには、「インパクト・ファースト」(経済的利益からではなく社会的な価値から考え、動く)という、大事な価値観があります。しかし、社会的価値を優先することは、一般的にVCが期待するような「成長」とは相反すると見られることが多く、実際にその両立は容易ではありません。
だから、「インパクト・ファースト」を維持しながらVCから出資を受けることは、本当に可能なのか、そして適切なのか。経営者として、不安も迷いもありました。
同時に、だからこそ、そこに挑戦していこう、という想いもありました。コンサル事業とプロダクト事業の両輪を回すことで、「インパクト・ファースト」と成長を両立させる。自らの成長をもって、「社会的価値と成長は相反する」という世間の見方や”常識”を変えていこう、と。
そんな中で、森山が先頭となって投資家とのコミュニケーションを開始。最後には、私たちの考えを理解し、後押ししてくれる投資家と出会うことができました。
その頃、私生活では間もなく第一子が生まれようとしていて、これから大変になることは分かっていましたが、プロダクト開発の本格化や、外部からの資金調達といった、創業当時には考えてもいなかった景色を前に、不安よりもわくわくが勝り、前へ踏み出す決意をしたのです。
結果的に、資金調達は、プレッシャーにならないといえば嘘になりますが、それ以上に、メンバーの増員や、MICからの想像以上のハンズオン支援(顧客や投資家、提携先候補の紹介だけでなく、広報支援や研修支援に至るまで)を受けることができ、ケイスリーのこれからの可能性を大きく広げてくれたと感じています。
3つめ:沖縄に移住する(2020年7月)
私は沖縄で生まれ育ち、大学からはずっと東京に住んでいましたが、いつかは沖縄に、という想いは年々強くなっていました。もともと、全国への出張も日常的だったので、東京にいても沖縄にいても変わらないのでは、という気持もありました。
さらにケイスリーでは、以前からリモートワークを取り入れていましたが、コロナ禍の中で、2020年春からはそれを強化、夏までにはほぼ完全なリモート体制に移行。
沖縄移住を現実的に考え始めたのは、その頃でした。
とはいえ、いくらリモートワークになっても、沖縄移住はやはり大きな決断です。コロナ禍が落ち着いた後に、社内メンバーとまた定期的に会うという機会を自ら断ち切ることになるし、以前は東京で様々な人と会い、そこからできる仕事も多かったので、その機会も減ってしまう。中央省庁との物理的な距離ができてしまうことも大きな気がかりでした。
しかも今は、大きな資金調達を終えたばかり。そのタイミングで代表が沖縄移住したら、どう思われるだろうか。沖縄へ移住したい気持ちとは裏腹に、頭に浮かんでくるのは不安の数々でした。
しかし、その考えが変わったのは、やはり森山との話でした。
ケイスリーは、これまで東京を基点に、全国の自治体と繋がってきました。そうした「点」を増やすことも大事だけれど、沖縄を拠点とすればそこを「面」で捉えることができ、しっかりと地に根差した事例をつくることができる。その強固な事例を全国に広げていくほうが、結局はインパクトを生めるのではないか。
中央省庁との関係は引き続き大事ではあるけれど、現場は地方で、地方が元気になるような取組みでなければ意味がない。それを地方で考え、現場でつくっていく。それができるのは、その地に身を置くからこそ。
しかも、私はもともと沖縄に貢献したいという想いがあって、それがケイスリー創業の根っこにありました。だから、その想いを具現化することは、組織的のこれからの成長・発展を考えても大事なことだと思ったのです。
森山と話しながら、ネガティブな考えは一斉にくるりと方向転換し、次第に心は決まっていきました。
私生活でも子供が生まれ、東京の家は手狭になり、そこでの在宅勤務は決して良い仕事環境とは言えない状況でした。自分の仕事環境を整えること、家族の生活環境を整えることも、今後を考えれば大事なことだと感じていました。
いま、移住して1年。沖縄での動きは確実に増えましたし、面的な展開も見えてきました。「沖縄から日本を変える」という素地は、着実にでき始めている、と感じています。
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これが、ケイスリー創業からを振り返り、大事だったと思う3つの決断です。次回は、「会社を経営する」ということについての私なりの考え方についてお話したいと思います。
(話:幸地正樹、文:今尾江美子)