家族と縁を切った、というお話
僕のことを冷たい人間だ、そういう人もいるだろう。
だって、僕は産み育ててくれた親との縁を切ってしまったのだから...
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母は長男である僕に対して「期待」していた。
子供の頃、僕は誰かと比べられたり、些細なことで怒られることが多かった。
身長の高さであったり、テストの点数であったり、それは些細なことばかりだったけれど。
中学生を過ぎたあたりからは「自分はこうありたい」という自我も芽生え、母と意見が衝突することが増えた。
殴り合いこそ無かったものの、口論の末に母を泣かせてしまったことは正直、心を痛めた。
母は、どこか僕に「理想の息子像」というのを思い描いていたのだと考え至ったのは、大人になってからだった。
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「理想の息子像」を知らなかった頃の僕は、ことあるごとに母と口論をした。
僕の「ひとりの人間」として認めてほしい。という承認欲求と
母の「理想の息子像」でいて欲しい。という我儘の
押し付けあいだったのかもしれない。
そんな押し付けあいの着地点はいつも、僕が謝る形だった。
−死んでやる、そう言い放って家を飛び出す
そんな強硬手段をとる母を前にして、それ以外の選択肢が僕には無かった。
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謝る。
それは、僕という人間の意思を曲げ続けることだった。
いつの間にか、知らず知らずのうちに僕は「他人の顔を伺う」「自分の行動に自信が持てない」そんな自己肯定感の低い人間になっていた。
それでも、その場限りは親との関係は保たれていた。
あの日が訪れるまでは...
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親と縁を切るきっかけになったこと...
それは「結婚」だ。
母にとって最も許せないことは、息子の結婚だったのだろう。
それはきっと「理想の息子像」が崩壊し、よその女に息子を盗られる。という感覚に近かったはずだ。
結婚に反対こそされなかったものの、否定はかなりされた。
自己肯定感の低い大人になってしまった僕でさえも、流石に自分が選んだ相手のことを理不尽に悪く言われることには納得がいかなかった。
この出来事は、禍根を残すこととなった。
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これは長男である僕だけの話ではなく、弟の結婚でも母はいざこざを起こしていた。
母が近くにいる限り、僕たち家族には必ずトラブルが付き纏う。
そう考えた僕は、親から距離をとることにした。
勤めていた会社を辞め、妻の実家のある北海道に移住することを決めた。
僕は生まれ育った土地に愛着も無かったし、見ず知らず土地に移り住むことに抵抗が無かった。
当然、これに親は激怒し、最終的に裁判所で調停まで行われることとなってしまった。
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コロナウイルスによる自粛もあり、関東には行くことは無い。
関東に行ったとしても、親に会うことは二度と無いだろう。
親と縁を切って、もうすぐ一年に経とうとしている。
僕はもう親に「謝る」ことはない。
今でも自分に自信はないし、他人の顔を伺ってしまう自己肯定感が低いままだけど。
この選択を後悔したことは今のところない。
誤解しないでいただきたいのは、親に感謝の気持ちがないわけではない。
ただ感謝と言いなりになることは、全く別のことである。
僕が僕らしく生きることが、育てもらったことへの恩返しだと(勝手に)考えている。
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最後に、親へ。
どうか健やかに、生きてください。
いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。