220710
仮にfabが大きな広がりを見せて、既存の生産システムに人々は依存せずに自律的に生産を行うことができるという、一種理想的な(これをなんと言おうか、広い意味でコミュニズム?)状況が実現されたとしよう。技術的にあるいは経済的に、社会的にそのような生産の仕方が可能になったとしよう。そのような条件が整えられたとしても、果たしてそこで人々は自ら進んで制作をし、生産を行うのだろうか。それを欲望するのだろうか。デザインは各々の欲望の問題を考慮にいれなければならない。
来るべき社会において、必要にかられた労働から解放された社会において、人々は何をするのか?何もしないでいることはできるのか、それを考えなければいけないだろう。有用性、生産性から解放された蕩尽としての制作活動、あるのはそれではないか。
制作活動といってもそれをありがたい傑作をうむ活動に限ってはいけない。ドゥルーズ=ガタリのいうように機械があり、機械による接続と切断の効果によって何かが生産されるのだとしたら、糞、散歩、おしゃべりといわゆる作品は、機械の生産物という限りで同じ資格を持っているのではないか。機械の生産の結果として傑作ではなく糞しかなかったとしてもそれが一体何なのか。機械の代わりにゲニウスということができるかもしれない。
糞をするみたいに何かを産み落としてその痕跡を残す。それを試してみたい。一種のスペキュラティヴデザインとなるだろう。
すべてが滅茶苦茶になることを夢想していたみたいだ。『ファイト・クラブ』のように。糞みたいな社会である。それだけで留めておこう。