220310

 胡蝶の夢について。3月7日の日記では、恵子に対する荘周の返答は的を外しているのではないかと思ったが、そうでもないような気がしてきた。
 《私》である恵子と荘周には《私》と他者という絶対的な違いがある。これは間違いない。
 問題は次のことにあるのではないか。恵子は《私》というものに関して、他者である荘周もそのようなものであると前提した上で、荘周である《私》と他者である魚の違いについて語っているということ。
 《私》と他者の絶対的な区別があるにもかかわらず、他者とその他者にとっての他者に《私》と他者の区別の構造を適用できてしまうのはなぜなのか。これが荘周の問いではないか。
 恵子は《私》と他者の絶対的区別を言いたかったのだが、その指摘において既にその区別が無化されてしまっているということ。
 未だ起こっていないこと、未来の出来事に関して。未来の出来事によって現実世界と可能世界を峻別することはできるのか。安倍晋三が撃たれた世界が現実となっているから安倍晋三が撃たれなかった世界が可能世界であると言える。未来の出来事が現実となっていることは未来の定義上あり得ず、そのような出来事が含まれている現実世界というものも当然ないのだから、未来の出来事によって可能世界と現実世界の峻別するということはそもそも意味をなさない。
 
 
 
 

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