220622

 錦小路にある喫茶店で3、4時間ばかり、湿度のせいか二日酔いのせいか、大して集中できないまま『知の考古学』を読んでいた。一緒にいた友人はバイト先のロゴをデザインするためにパソコンを開いてみたり、YouTubeだろうか、なにか動画をみて笑ったりして過ごしていた。彼も二日酔いのせいか集中できないようだった。当初は銭湯にいこうなんて話していたが、結局2人とも疲れ切っていて帰宅することになった。

 友人と別れた後、私はひとりチェーンの定食屋でチキン南蛮定食を食べた。定食の気分だった。19時半ごろに店を出ると、昨日が夏至だっただけあって外は未だ夕方といえる明るさだった。この前まで19時半は夜だったきがする。京都特有のまとわりつくような蒸し暑さがあるが、私は家まで歩きたいと思って歩みを進めた。錦小路を西に進み、新京極の商店街に突き当たると北へと進んでいった。

 商店街は昼の空よりも眩しかった。暴力的なほどに照らしてくる蛍光灯が向こうまで連なっていて、屋根から照らしていた。ただ目立てばいい、そのために明るさを!といわんばかりのドラックストアが現れて目が痛いほどであった。金切声のような光だ。商店街はそのような光にあふれていた。録音された女の声がしきりに、ここは喫煙禁止であり、喫煙すると科料が課せられると喧伝していた。

 それから鴨川を北上していると、鴨川に面してギャラリーであろうかガラス張りの建物があった。その中では、目に刺さるような電光掲示板——作品だろう——が壁に数枚かけられていた。それは川にむけて晒され、光で目を引きつけようというような魂胆が丸出しのように感じられた。

 何なのだろうか、この下品さは。媒体そのものがメッセージなのだとすれば、川沿いのギャラリーや、痛い光のドラックストア、電光掲示板のメッセージとは「見よ!」、それでしかない。けたたましいアナウンスは、喫煙どうこうについていう前にまず「聞け!」と捲し立てている。(我々はこのようにして多かれ少なかれADHDの状況にある。)

 どこもかしこもこのような「見よ!」「聞け!」といった命令で溢れていないだろうか。ただ人の注意を惹きつけさえすればいい、そんな意図のもとで生み出された光や音の命令が。川沿いでは、虫が青い光に引き寄せられジジジっと音がしていた。死の音だ。あのドラッグストアの光、それは青い光が虫に語りかけるのと同じ仕方で人に語りかけているように思われた。(語りかけるという柔らかいものではないが。むしろ「叫びかける」のほうがふさわしい。)

 ある意味これは優しさなのだろうか。もしくは民主的なことなのだろうか。それに関心のないものも、無知なものへも誰もに平等に何かメッセージが届けられるためへの配慮として、このように「聞け!」「見よ!」という命令があるのだろうか。誰もがアクセスできるように、すべてが過剰なほどに顕にされているのだろうか。何かを見出した人だけがアクセスできてしまう、そのような運命的出来事を憎むかのようだ。

 こんな世界では何がひっそりと隠れて、密かにそこにいることができるのだろう。私は何かひっそりと他から隠れて、恥じらうかのようにして街にあるもの——例えば橋梁の日本酒の一号瓶、雨の夜に暗い歩道にぽつりと佇む炊飯器——に対して一種の親近感を、愛らしさを感じていた。かつてはさまざまなものたちはこのように存在していたのかもしれないと思いを馳せる。

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