230301
久々に書く。1ヶ月前に失恋をした。2週間ほど前には修了制作展が終わった。その後はよくわからない苛立ちと悲しさに襲われ何日か寝込んでいた。その間は食べることも面倒くさくなり1日に一食だった。自炊をする気もおこらずコンビニと外食でしのいでいた。
動けるようになってからは次第にピアノの練習、特にジャズピアノの練習をしたいという衝動にかられ、何時間もピアノを弾いていた。今はそこまでの集中と持続はないが、それでも1日に2、3時間は弾くようにしている。ある程度の練習したら念願の曲作りに入ろうと思う。メロディーとコード進行はできているのであとはそれをどう変奏するか、そしてどのように編曲するかを考えていくだけだ。音のつくりかたも考えなければならない。
展示が終わり、造形の基礎も学びたいと思い、カンディンスキー『点と線から面へ』を買った。パウル・クレーの『造形思考』、イッテンの『色彩論』なんかもウ読みたい。
造形などどうでもいい、考え、観念こそが重要なのだというのが7年にわたる態度であったが、ここに来て内容ではなく形式、ただ形をつくることへと重点が切り替わった。造形というのが無意味に思え、何もできないというニヒリズムから、無意味であるからこそ行うのだという態度に変わったといえるだろう。とにかく時間的芸術としての音楽、空間的芸術としての造形の2つがこの先5年の活動の地盤となるだろう。
何ヶ月か前にはじめて永井均の著作を読み、展示が終わり時間ができてから彼の他のものも読んでいた。これまで何年か「哲学」鑑賞をしてきたが、何か納得のいかず渇きを抱えていた。自分が子供のときの問いとそれについて考えるという行為が、「哲学」といわれる本を読むことで次第に忘れ去られてしまったようだ。自分で〈哲学〉をしようと思った。そうせざるを得ない。
これは音楽にも通じるの。もちろん素晴らしい音楽を聴くのは愉しみではあるのだけれど、何かそれでは満足できなくなってきた。小説が読めなくなったのも同じことかもしれない。読むよりもくだらない日常を言語で描写するほうが良いと感じるようになった。鑑賞することから作ることへの移り変わりがあったようだ。垂れ流すようにつくること。
感性について。たいそうなものや綺麗なもの、感動を与えるものには惹かれない。どうでもいいもの、無意味なもの、ばかげたもの、不条理、そのようなものが良い。散歩をしていてふと何かが目にとまり写真をとることが多々ある。その時に写真におさめるものは大抵そのようなものである。その上写真自体もそのようなものである。その感性についてさらに細かく分析していきたい。思えば日記自体究極のところどうでもいいものだ。
自分の死を望むことについて。それがどういうことがわからない。何かが望まれているとき、ただそれが起こるだけではなく、それを願う人がその出来事を享受することが望まれているのではないか。私が享受することの不可能なことを願うということはいかなることなのか。
「雨が降ってほしい」という願望を私が抱いたとする。それはつまり、ただ降雨という出来事が起こるのではなくて、何らかのしかたでそれを享受することを、私は望んでいる。私が実際に雨にあたるのでも良いし、それを知覚するか、雨が降ったことをただ耳にするのでもよい。
「クラゲになりたい」という願望を私が抱いた場合について考えようとしたが、「雨がふってほしい」という願望とは別種の問題であると思われる。人間である私が、その記憶を引き継いだままクラゲになった場合、私は私がクラゲになったことを享受することができる。クラゲが〈私〉であり、以前は人間であったという記憶を持つ場合。記憶を持たないまま、ただ単にクラゲが〈私〉になってしまった場合は、私はクラゲになったという出来事を享受できない。他の場合も考えるべきだ。
後者の場合、クラゲが〈私〉になってしまう前までは、私はクラゲになりたいと望むことができるが、叶う時にはもはや叶うということが不可能になるのではないか。
自分の死を望む場合。私が死んだ場合、私は消滅してしまっているのだから、何かを享受したり、記憶をもつことはできない。これは記憶を持たないまま、クラゲが〈私〉になってしまうことと同じなのだろうか。
私が死んだ場合、〈私〉があってはならなず、無でなければならないのに対し、クラゲが〈私〉である場合は、〈私〉がある。そこに違いはあるのではないか。
今思いついたが、例えば私が「重力がなければいいのに」という願望を持ったとする。重力がない世界を我々は思考可能ではあるし、そのような世界においてそれを享受する可能性はある。一方、「三角形の内角の和が180度でなければいいのに」という願望をもったとして、そのようなことが成り立っている世界は思考不可能であり、そのような世界においてそれを享受することがどういうことかわからない。私の死を願うということは後者と同じなのではないか。
もうひとつ思いついたことを書くと、記憶を受け継いだままクラゲが〈私〉になるというのは、死後地獄に行って罰をうけるという意味での死と同じタイプではないか。
などと書いていたら日が暮れた。