デジタルvsアナログ〜タイピングがいいの?手書きがいいの?〜
チャンネルが始まりました。皆さん、おはようございます。パーソナリティーの葛原です。このチャンネルでは、全国の「学校が嫌い」「勉強が嫌い」というお子さんがもう一度勉強の楽しさに目覚め、そして「学校がしんどい」という教師の方々がもう一度「教えることが楽しい」と思えるようなチャンネルにしていきたいと思っております。
土日は全然予定がなくて、めっちゃ休めたんですよ。そうなると、二日でしっかり休めたら日曜日の晩ぐらいから頭が回り始めて、教室で子供たちがいない場で私が発信的な話をすることが多くなります。日曜日の夕方ぐらいからややこしいツイートが増えることがありますので、ややこしいツイートし始めたら「葛原、週末ゆっくり休めたんだな」と思っていただければ幸いです。
アウトプットスピード
今日はICTの話をしましょうか。タイピングと手書き、どちらがいいかという話を、シンプルにしていきたいと思います。どちらも良さがありますから、どちらも使えばいいのですが、では、どういう良さがあるのかという話です。
タイピングの方から行きましょう。タイピングは単純に量を出せます。1分で書ける文字数が、おそらく手書きよりも早いです。これは道具の熟練度にもよるのですが、技能的な側面を伸ばしていけば、1分間に出力できる言語文字の量は、おそらくタイピングの方が多くなります。
対して手書きは遅いのですが、遅い分、考えながら書くことができます。かつ、手書きの場合は二次元展開が可能です。つまり、一瞬で図に変えたり、矢印でつなげたりという操作が可能になります。これは自分の脳内の表象を映し出すために非常に有益なのです。
手書きは自分の深くから情報を出してくることができる
自分の脳の中にあることは一次元配列されていません。つまり、Aの次にBの事柄が出て、Bの次にCの事柄が出てというような単純な構造をしていません。Aという情報に対して、B、C、D、F、I、Jという情報がくっついているわけです。恣意的にそれを一つずつ抽出していくわけですが、その時に筆記の場合は、そういう情報構造をよく考えながら、おそらく人間は出力するわけです。
だから、その余地が残るわけです。つまり、自分の思考を吟味しながら出していくような構造になり得るのです。そして、インプットした情報のアウトプットの仕方としても多様であり、さっと図にしたり、矢印を引いたり、ビビッと消したりということができます。
それをすることで、自分の深いところからの情報というのを出しやすい気がします。手書きの方が脳的にもそちらの方が自然なのです。制約が、タイピングに比べてかなり少ないので、自分の中の情報というのをちゃんと出そうと思った時に、手書きの方が実は自分の内部と近い情報が出る可能性があると思っています。
タイピングで出してきた情報はデータとして扱える
タイピングの利点に話を移しますと、先ほど量的な面に触れましたが、さらに重要な点があります。それは、データ化されているということです。データ化のメリットは非常に大きく、例えばAという情報を入力した時、それはデータベースの中で検索可能な表記として蓄積されます。
これは教育実践において非常に重要な意味を持ちます。例えば、私の場合、教育についてのツイートを数年来続けているのですが、それを一括でダウンロードして、GPTに取り込んで分析することができます。「この人物から推察される教育的な深い願いは何なのでしょう?」というような形で分析させると、自分の中にある教育的な発想をデータ的に分析し、傾向をフィードバックしてもらうことができるのです。
これは教育者として自己の実践を振り返り、技術を蓄積する上で非常に大切です。子どもたちも同様で、データとして書いていれば検索が可能です。使用するアプリケーションにもよりますが、一覧検索して「自分のこういうキーワードを使った記述はどれくらいあるのかな」というように振り返ることができます。
もしこのような振り返りを想定せずにICTを使うのであれば、それは単なる量的なメリットの享受に留まってしまいます。普通にシームレスに手書きに移行できるような媒体が出てきたら、また話は別かもしれません。iPadのような機器もありますが、iPadにも微妙な点があります。GoodNoteなどで作業はできるのですが、ノートほどのサクサク感はありません。
手で書いた「あ」とタイピングした「あ」の違い
最近のiPadには、自分の手書きの文字を通常のタイピング文字に変換してくれる機能がありますが、私はこれが少し気になります。自分で書いた文字がパッと、そのパソコン文字に変換されてしまうと、すごく情報量が減った感じになるのです。自分の文字とパソコンの文字の違い、そこで削ぎ落とされるもの、つまりアナログからデジタルへの移行の際に失われるものが、非常に明確に感じられる瞬間なのです。
手書きの文字というのは、それだけを取ってもいろんな情報が乗ります。「あ」というひらがなを書くにしても、その書き方には自分の心理状況などが反映されるのです。そこには何か非言語の情報が保存されている感じがします。過去のノートなどを見返したくなる理由も、そこにあります。自分が過去に書いてきたノートや文字というのは、自分にとってさまざまな情報が詰め込まれた記録媒体となっているのです。
それに対して、文字情報、つまりデジタルのデータ情報には、確かにある程度の情報は含まれているものの、手書き情報ほどの生データとしての豊かさがないという実感が私にはあります。これは、私たちが教育現場で大切にすべき「学びの痕跡」という観点から非常に重要な気づきです。
デジタルの記述では、それだけ情報が抜け落ちてしまうからこそ、私たちは量でカバーしようとするのです。思いつくことを何でも書いて保存していく。その表出に関しては、論理的なつながりやある程度の分布はいったん度外視して、とにかく書き切ってしまう。これは、私がよく提唱している「QNKS」理論で言うところの「N(Notes:記録)」に当たります。
(N)抜き出しは「大量」に
このNの重要なキーワードは「大量」です。大量に記述することで情報をリッチにしていくのです。なぜなら、情報の記述形式に関してかなりの情報が抜け落ちてしまうような構造をタイピングは持っているからです。そうなると、量でカバーするしかない。たくさん書くことに関してはタイピングが向いているので、たくさん書いた情報をデータベース化し、そのデータベースから深く考えていくというベクトルでタイピングを活用したいと考えています。
私自身、この考えに基づいて「Scrapbox」というサービスを活用しています。文字情報を大量に、かつネットワーク化することで、教育実践の振り返りや新たな気づきの発見に活用しています。
一方、アナログに関しては、それ自体にかなりの情報を保存できる可能性があります。例えば、けテぶれシートを考えてみましょう。日々の振り返りの中から自己像を切り出していくという発想では、手書きの方が豊かな情報を保存できるのです。
だからこそ、私は生徒たちにけテぶれシートを「一生大事にして」と伝えています。20歳になった時に、自分が小学校の何年間で書きためた学習計画とその振り返りのノート、これを見返す価値のある記録として残しておいてほしいのです。その時に、データで保存された情報と、自分が鉛筆で書いたノート、どちらにより豊かな情報が保存されているか。多くの人が想像できると思いますが、リアルの手書きのノートの方が、自分の小学校時代のさまざまな経験や感情を、より深く記録している媒体となるでしょう。
手書きの「遅さ」のメリット
表記そのもののリアルタイムの表出に関して、手書きは確かに遅いのですが、その「遅さ」が持つ意味は非常に深いものがあります。遅いからこそ吟味しながら書くことができ、その過程で深い学びが生まれるのです。その深さは、単に考えながら書くということだけではなく、その文字一つ一つに保存される情報が、かなり自分の深いところから出たメッセージとして刻まれていきます。筆圧や筆跡、あるいはちょっとした余白の落書きにさえ、その時の学びや感情が豊かにリンクされていくのです。
ただし、手書きは量を出すことは難しく、またデータベース化という観点からも制約があります。そのため、日々コツコツと積み上げて、豊かな情報として保存したい場合は手書きの方が適しているといえるでしょう。これは、学習者一人一人の学びの軌跡を大切にする教育の本質に深く関わる選択です。詳しい方法はいかに書きました。
得手不得手という観点
しかし、ここで重要な点があります。これは両者の道具を最大限まで使いこなせているという前提での話なのです。例えば、鉛筆で文字を書くのが苦手な子どももいます。私自身も実は手書きがとても苦手で、数文字書いただけで手が痛くなり、書くことに抵抗を感じてしまいます。
このような得意不得意は、学習ツールの選択に大きく影響します。タイピングの方が得意な子もいれば、手書きの方が得意な子もいるわけです。そしてここで重要なのは、その得手不得手を認識しつつ、両方の技能を育てていく必要があるということです。道具をちゃんと自分の身体として使えるほどに熟達する、そのプロセスはどちらにしても非常に重要なのです。(僕は鉛筆の仕様に関する基礎能力を固める練習が足りなかったのだと思います)
特に小学校低学年においては、基礎的な書字能力の獲得が重要です。一、二年生から安易にタブレットだけに依存するのではなく、鉛筆での書字にしっかりと熟達させることが大切だと考えています。タブレットを使うこと自体は否定しませんが、それによって鉛筆が不要になるわけではありません。タイピング能力が重要だと言われる現代だからこそ、手書きの能力も同様に重要なのです。
どちらかではなく、どちらも
なぜなら、どちらかの道具しか使えない状態になると、それぞれの持つ独自の利点を活かすことができなくなってしまうからです。タイピングを拒否し続ければ、自分の記述をデータベース化して大規模に保存・分析するという可能性が失われます。逆に、「タイピングの時代だから手書きは不要」と考えてしまうと、手書きによって保存される貴重な経験や感情の情報が失われ、魂の抜けた殻のようなタイピングの文字情報だけが残ることになってしまいます。
両方の技能を身につければ、状況に応じて最適な方法を選択できるようになります。そしてタイピングでも自分の深くから情報を出せるようになる練習や、鉛筆で文字を大量に書けるようになる練習も必要も意識することが出来ます。これらを両輪として育てていかないと、どちらかしか使えない人になってしまい、それは学びの可能性を狭めることになります。ただし、個人の適性というものもありますので、それぞれの特性に応じて使い分けていくことが望ましいでしょう。
このテーマについては、実は非常に広範な議論が可能で、私の中でもまだまだ多くの考察すべき点があります。特に今日のような「ICTと手書き」という二項対立的な議論を超えて、より本質的な学びの在り方について考えていく必要があります。
活動の特性という要素
それぞれの道具には、その道具ならではの適性があります。例えば、授業中のノートテイキングでは、手書きの方が理解度が深まるという研究結果もあります。これは、手書きの際に必要となる「情報の取捨選択」や「要約力」が、学習内容の深い理解につながるためです。
一方で、プロジェクト学習やグループ活動では、タイピングによるデジタルツールの活用が効果的です。アイデアの共有や編集が容易で、協働学習を促進できるからです。このように、学習の目的や場面によって、最適なツールは異なってきます。
私たち教育者に求められているのは、これらのツールを「対立するもの」としてではなく、「相補的なもの」として捉える視点です。デジタルとアナログ、それぞれの特性を活かしながら、子どもたちの学びをより豊かなものにしていく。そのためには、私たち自身が両方のツールに精通し、その可能性と限界を十分に理解している必要があります。
学ぶって何?考えるって何?
結局のところ、これは学びの本質に関わる問題です。私たちが目指すべきは、子どもたちが自分の学び方を理解し、状況に応じて最適な道具を選択できる力を育むことです。そのためには、デジタルかアナログか、という二元論を超えて、それぞれの道具が持つ可能性を最大限に引き出す方法を、共に探求していく必要があるのです。
そして、これは単なる技術的な問題ではありません。私たちは、子どもたちの学びの記録をどのように残し、どのように振り返り、そしてどのように次の学びにつなげていくのか。その過程で、デジタルとアナログの両方の特性を活かしながら、より深い学びを実現していく。それが、これからの教育に求められる重要な視点なのではないでしょうか。
では、また明日の放送でお会いしましょう。バイバイ。
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