データに頼りすぎないための判断力の鍛え方
「データ分析×人×ビジネス」の軸で記事を書いています。
さて本日は以下の的にフォーカスした話をしていきたいと思います。
”データが正しい”は本当か?
よくデータ分析は「より迅速かつ正しい判断をするため」に行われるみたいなことが言われます。もちろんこれは1つ、うまいデータ分析の性質を言い表しているように思えます。ところが、私自身はちょっとイジワルな偏見をもっておりまして、、、「データ分析はかえって判断を難しくさせる」とも思えるのです。
全ての大前提として、データは正しく計測されたものでなければ意味がありません。未だにこのことを知らない人がけっこう多いです。ここでいう正しい計測というのには2つ意味があります:
最終的に主張したい意図を支持する根拠となる分析結果を得るためのデータなのか
それが正しい計測方法により、正確に測れているのか
大概は後者のことを考えがちで、全社の「最終的に主張したい意図」というのがないのにもかかわらず、データ分析を始めようとする人がいます。少し表現を変えれば、自分が何を主張したいかわからないから、データ分析によってそれを明確にしようとするということです。しかし、これではうまくいかない。
例えば、日本料理屋の店長になったとしましょう。元々はオリジナルの創作料理で品数は少なく味一本で勝負したいと思っていたとします(メニュー数はせいぜい10品くらい)。ところが毎日の来客数が少なく、年齢層も限られている(どちらかというと高齢者寄りの人が多い)ことに気づいてます。そこで「もう少し広い年齢層にも来てもらいたい」と思い、そうするためには「もっと手軽に飲みに来れるよう、おつまみ系の品数を増やしてみようかな」と考えました。
こういうのはよくある話で、似たようなことを飲食店の経営者なら一度は考えたことあると思います。それで、今のシチュエーションで「一番主張したいこと」って何なのでしょうか? 加えて言うならば、その主張が正しいと言える根拠としてどんな材料があればいいのでしょうか?
主張したいことがない人は決められないし、決められない人はどんな良質な分析結果(説得の根拠)があっても使えない
ここでは話を簡単にするため、主張したいことが「品数を増やせば、来客数が増える」ということだとします。ただ、この「品数を増やせば」ということの裏側には色々な意図があるはずなので。いってみれば「複数の仮説」に近いかもしれません。
例: 若者は味の濃いものが好き(うちは全体的に味が薄め)、旬の素材だけでなく通年でベーシックに食べれるものが求められている(うちは旬の素材に偏っているのがウリだが、いつも食べたいポテトフライなども必要かも)、etc.
つまり、明文化されていなくても「どんな料理の品数」を増やせばいいのかという単純な集客目的の考えがあるわけです。もし少し頭のキレる人であれば、単に来客目的だけでなく、自分の店のコンセプトに沿わないものは例え来客が見込めても採用しないかもしれません。
総じて言ってしまうと「集客」のような売上直結の指標を動かすための根拠と、自分の根幹的な「経営哲学」のような売上間接型の指標(そんな指標は無理やり作る必要もないが)を動かすための両軸で決めていく必要があるわけです。
これがない人は「それを支持するために、どういうデータが必要か」というデータ計測への落とし込みができないのです。字面上「データ計測の設計」なんてのは教科書でも言われますが、多くの場合は「システム構築上のデータ計測設計」という意味で扱われています。もちろん、これは重要で欠かせない設計業務です。しかし、それ以前に「ビジネス上、自分が主張したいことを支持する材料を用意するためのデータ計測設計」というのをやらなくてはなりません。
データ分析で土台をつくり、センスで穴を埋めるという考え
これもよく聞くキーフレーズですが「ArtとScience」というのがあります。ただ、これも批判的な言い方になってしまうのですが、ほとんどの人がScienceの部分に欠けている気がするのです。ちなみにここでいうArtというのは、どちらかというとビジネスの現場理解みたいな意味合いが強いのだと思います。Scienceは定量的に把握するみたいなことくらいの意味しかない気がします。
Scienceつまり「科学」のことですが、こういうことを言う人の中で「自然科学的な実験アプローチ」をちゃんと学んだことがない人が多いです。ビジネスの世界では物理や化学のような実験という意味合いより、どちらかというと心理学実験のようなものが近いですかね。ところが、日本の心理学科出身者でも心理学研究法を知っている(ビジネスの現場で使えるレベルの)人はあまり見たことがありません。※そもそも、そういう人が少ないというのもあると思います。
さて、話が少し逸れ始めたので元に戻しましょう。
仮に正しい計測ができて、それをデータ分析できたとしましょう。今、手元には色々な分析アウトプットがあるというような状態です。ところが、どんなに分析結果が十分でも「うまく説明できる状態」にはなりません。これはそもそもデータ計測の限界であったり、データ分析(統計学)というアプローチの性質上「証明」ということ自体ができないからです。
データ分析(統計)というのは、帰納的なアプローチです。帰納的というのは「1つずつ事実を積み上げていって、その結果として”どうやらこれは確からしい”ぞ」というようなものです。しかし、帰納的アプローチの欠点は「決して100%正確」といえないというものです。よく言われる例ですが、黒いカラスを1羽、2羽、・・・と観測し続けます。たぶん我々は数千、数万という数の黒いカラスをみてきていることでしょう。だから「白いカラスがいるというのは現実的に考えにくい」わけです。ところが、絶対に白いカラスがいないとは言い切れない(だって次に見るとき白いカラスである可能性はゼロではないから)。
このようなアプローチなので、やはり「どうしても説明しきれない不整合的な”穴”が生まれる」のが当然に出てきてしまうのです。イメージ的にはデータ分析によって、大まかな土台ができているような感じでしょうか。換言すれば土台の所々に穴が開いているような感じともいえるかもしれません。
それで、こういう時にどうしても「その穴を埋めるために更なる深掘り分析」みたいなことをしてしまいがちです。しかしそれは多くの場合において適当な策ではありません。ほとんど手間がかからないか、明確に深掘りをして主張したいことを強烈に支持できる根拠が得られるという確信がある場合を除いては、です。ここまできたら、ある材料で勝負しなければなりません。
この「ある材料で勝負する」というのがArtの部分で、私なりの表現でいえば「センスで穴埋めをする」ということになります。先の話でいえば、品数を増やせば来客数が増える見込みはありそうだが、ポテトフライを加えるべきかどうかまでは分からない、どうしようといった感じです。つまり、ポテトフライはどの店にもあり、共通した人気商品であるが、これそのものが来店につながるものであるという分析結果は得られていない(=穴)。一般的な感覚なら追加すべきだろうが、お店のコンセプトを損なうことになるのではないか、etc. 色々な考えがよぎるわけです。
損をしてでも貫きたいものがあるか?という問い
意思決定のポイントの1つですが、この例で「ポテトフライを追加することで、店のコンセプトを揺るがすかもしれない(悪い意味で)」という懸念があったとき、どうするかということです。これは前半で述べた「主張したいことがない人は決められないし、決められない人はどんなに材料があっても決められない」ということにつながってきます。
自分として絶対に守らなければならないコンセプト、それが何で、それを守ることが自分にとってどれくらい重要かは「感覚でしかない」のです。いってみれば自分自身の経営哲学、すなわち仕事の中での生き方に近いものですから、こんなものに根拠なんてありません。長い経験のなかで小さな積み重ねによって得られたものだからです。これは生まれ持っての才能とかではなく、経験によるものですから、まさにその人しかもっていないオリジナリティあふれるものです。 ※逆にそれがない人は大した意思決定などできないということで、経営者になるべきではないでしょう。
こういった感性に対して素直になるのは、意外と難しいものです。時としてその完成は”アテにならない”ことも多いからです。経験的な勘は、アンコンシャスバイアスとして最近では注意喚起されることも多くなっていますね。あるいは、一歩これを間違えると「自分よがりの偏った判断」にもなり、場合によっては従業員を犠牲にするような方向にも進んでしまう可能性さえあるのです。
だからこそのデータ分析という土台、そしてそこにある穴を埋めるセンスという考えが重要なのだと思います。土台があれば前述のような「明らかな誤り」というのを選択する確率を最小にすることができます。とはいえ、最後の最後でどうしても埋められない穴は「感性に従う」ということで、思い切りよくやるしかない。ただ、この感性は経験といって等しいものなので、これを日頃から培っていかなければなりません。おそらくそれは「たとえ損をしてでも貫かなければ存在意義そのものがなくなってしまう大切なもの」になっているはずです。そういう判断をしたのであれば、仮に間違った判断であったとしても「長期的には正解」となることも多いです。