自分はいじめの加害者
※攻撃的,暴力的な内容が含まれます
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中学時代、自分はいじめをしていた
相手は同じ部活の同学年の男子(以下Y君と呼ぶ)
Y君は真面目で少しシャイでありつつも小ボケを挟んだりする、そんな性格だったのだが、当時の自分はY君に対して主張が強くてウザいとか、もじもじしてて格好悪いとか、話が面白くないとか、そんな風な印象を抱いていた
いじめを始めた明確なきっかけは無かったように記憶している
Y君の話を自分が頭ごなしに否定するなどして口論が起こることはよくあった
そして月日が経つにつれ、それはただ自分がY君を攻撃するだけのものになっていた
卑怯な自分はY君の優しさに付け込んだのだ
Y君と顔を合わせる度に「死ね」「キモい」「喋んな」といったひどい言葉を浴びせ続けた
人の欠点を口汚く罵ることで、無数にある自分の欠点から目を背けていたのだろう
人を悪く言うことで、相手より自分が優位に立っているように感じていたのだろう
人に暴言を吐くことで、ストレス解消をしていたのだろう
しかしそれはれっきとした犯罪であって、本当に自分勝手で愚かな行動だった
最初のうちは「何でそんなこと言うん?」といった言葉を返してきていたY君も、だんだんと無理をした引き攣った笑顔で暴言に耐えるだけになっていた
しばらくしていじめが教師に知られることとなったが、親が呼ばれて少し話をされたくらいで何のお咎めも無かった
自分はY君に対してまともな謝罪もしなかった
部活が同じだったこともありその後の学校生活でY君と関わる機会も多かったが、いつもY君はいじめなど無かったかのように接してくれた
Y君の懐の深さと自分の矮小さがはっきりと感じられた
Y君の優しさに触れる度に申し訳ない気持ちと自己嫌悪が胸の中に広がった
よく聞く言葉に「いじめをした側は覚えていなくても、された側は死ぬまで覚えている」というものがある
それを踏まえ私は中学の卒業文集の中で自分が在学中いじめをしていたと書いた
そうすれば自分がいじめの加害者であることを忘れないだろうと思ったからだ
だがそれは今思えば「自分が忘れないため」というよりも「Y君に許してもらうため」の行動だったのだろうと思う
多くの人が一生保管し、思い出話をする際にはめくられ、家族に見られることもある、そんな卒業文集にいじめをしたことを書き残すことでY君に許してもらおうと考えたのだろう
犯罪を犯しておいてその程度で許されるはずも無いし、「このくらいやれば許してくれるかも」などと考えている時点で全く反省していない
正真正銘のゴミだ
高校時代も通学に使う駅でY君とは何度か会った
ただどんな顔をして話せばいいのかわからなかったから、自分はいつも気付いていない振りをしてスマホを見ていた
それでもY君は自分に何度か声を掛けてくれた
いじめなんて無かったかのような気軽さで
Y君は本当に何も気にしていないかのように接してくれたが、本心ではどんなことを思っていたのだろうか
今でも知りたいと思う
以前「いじめの加害者にも未来があるのだから厳しい罰を与えるべきではない」という意見を見た知り合いの人が「加害者に未来なんて無いだろ」とTwitterで呟いていた
その通りだと思った
いじめの加害者である自分には今を生きる権利など無い
誰も自分を殺さなかったし自殺をする勇気も無かったから今も生命活動が続いているだけであって、本来生きていてはいけない人間なのだから
散々人を苦しめておいて、自分は何の咎めも受けずのうのうと生きている
こんな事は許されない
自分はずっと甘えている
両親をはじめこれまでお世話になった人たちの恩を仇で返すことになる、そのことにさえ目を瞑れば、自分はさっさと死ぬべきなのだろう