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6/9(火)
近所に、酢豚だけは格別に美味しいが、他の料理は全てヘドロを食べているのかと錯覚するほどまずい中華屋がある。
ぼろい看板には、赤字で「毛娠」と書かれている。
「マゥシン」と読むらしく、中国では有名な毛生え薬の名前から取ったという。
一人で切り盛りしてる陽さんは、いつもピチピチの、ラメのついた肌色のタートルネックを着て料理をしている。
蒸し暑い厨房でタートルネックを脱がないのには理由がある。
陽さんには元々奥さんがいたが、ある日一緒に競馬に行った時、奥さんが80億円当て、そのショックで体中の血が沸き上がり、文字通り「蒸発」してしまった。
陽さんは愛する妻がみるみる灰塵になっていくのを、呆然と見ていることしかできず、たった一言口から出た言葉は「再见(さようなら)」でも「我爱你(愛してる)」でもなく、「鲜奶油(生クリーム)」だったという。
後に残ったのは80億馬券と、肌色のタートルネックだった。
80億に手を出したら、それは奥さんを忘れたことになる。
その戒めのために、ピッチピチのタートルネックを着ているのだ。
「億万長者になったぁおもて喜んどったら、嫁はん消えてもたんやから、そらパニックなって生クリームとも言いまっしゃろなぁ」
常連である泣き上戸の肺鳩さんは、いつもこの話をする。
「ホンマにかわいそうや けどな、陽さんはできた人や 今まで80億円に一回も手つけんと、毎日せっせとこうして鍋振っとる ほんまにえらい」
今日も肺鳩さんが机に突っ伏してむせび泣いている。
何も言わず困ったようにはにかむ陽さん。
これが毛娠の日常風景だ。
しかし、ぼくは知っている。
ぼくは見たのだ。
酢豚以外の注文が入った時、陽さんがタートルネックの下から、大量の万札をわしづかみにして中華鍋に入れているのを。
そう、酢豚以外のメニューがまずかったのは、万札の炒め物だったからなのだ。
陽さんは妻を失い、「鲜奶油(生クリーム)」と呟いてしまったあの時から、既にぶっ壊れていたのだ。
陽さんの目には、客全員があの時妻を消した悪魔として映っていたのだ。
その悪魔に対し、全ての元凶であるお金を食わせることで、復讐をしているのだ。
では、なぜ酢豚だけは、ちゃんと作れるのかって?
それはね、奥さんが一番好きなメニューだったからです♪
再见!