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『権利の情況』~この訴訟が向き合い、また乗り越えるべきもの~コロナ特措法違憲訴訟「意見陳述要旨」

1.本件訴訟が向き合い、また乗り越えるべきもの


原告訴訟代理人弁護士の倉持麟太郎です。


今日は、簡潔に、本訴訟でこの法廷にいる法曹関係者全員が向き合い、そして乗り越えるべきこの国の「権利の情況/ the circumstances of rights(権利とそれを取り巻く環境)」について意見陳述いたします。


本訴訟は、コロナ禍で露呈した日本社会の様々な次元での脆弱さを問うとともに、日本国憲法が生きているのかを問う訴訟です。


日本国憲法を支える大きな柱が二つあります。人権と統治です。本訴訟は、人権と統治それぞれにおいて現代日本社会で憲法が生きているのかを問う訴訟なのです。
具体的には、
人権において、①日本国憲法が保障する人権の実践がこの社会に定着し、また、実効性が担保されているのか
統治において、②日本国憲法上、ほぼ初めての緊急事態下において、統治の三権が機能するのか
が問われています。

2.人権について


本訴訟で、我々は東京都による原告への時短命令及びその根拠となった新型インフル特措法の違憲・違法性を争っています。憲法との関係では、主に営業の自由への侵害が争点です。
我が国の判例及び学説においては、精神的自由と経済的自由の保障の優劣、経済的自由における規制目的による審査の厳格さの有無、といった点の議論の蓄積があります。


我々は、既存の判例法理によっても、本件は法令及び適用において違憲と考えておりますが、コロナ禍が明らかにしたのは、このような形式的な切り分けでは我々の権利の情況を正確には把握できないということです。


現代社会では、それぞれの個性や善き生の構想が多様であることが肯定される一方で、その核心である「個人の自律」を真に保障する法運用や司法判断がなされているかといえば、残念ながら答えはNOです。


営業の自由一つをとってみても、精神的自由や職業選択の自由と比べていかなる審査基準をとるかといった判断手法は硬直的にすぎます。最高裁判例においても、職業の選択を実質化するためには「選択した職業の遂行自体」の自由も保障すべきと言及するとき、それは、職業の選択と遂行の密接不可分かつ相互補完的な性質を表現しています。本件でも、特措法による飲食店への一律の時短要請は、特定の業種を狙い撃ちにした事実上の休業要請といえ、その制約は職業に関する自由の核心的部分にわたる強度な制約です。権利自由についての既存の類型的分類ではなく、その制約の強度にこそ着目し厳格な審査がされるべきであると考えます。


また、訴状でも主張したとおり、営業の自由は、その事業主だけでなく、そこで働き、関係するすべての人々のあらゆる自由を載せたマザーシップ、ハブのような性質を有しているのです。最高裁判例は職業について「社会的相互関連性が大きい」ことを理由に精神的自由に比して公権力による規制の要請が強いと論じます。しかし、この「社会的相互関連性」という概念もより緻密な分析と刷新が必要です。現代社会においては、社会相互関連性が大きいという本質があるからこそ職業に関する自由を制約することは相互に関連する様々な自由に甚大な影響を及ぼすのであり、その制約は慎重かつ厳格に審査されるべきです。


そもそも「自分らしく生きる」という「個人の自律」の核心からの距離は、精神的自由も、職業選択も、職業遂行すなわち営業の自由も等距離なはずであり、形式的な切り分けは個人や社会の分断すら生みだすでしょう。


本訴訟においては、裁判所が、形式的枠組みに拘泥することなく、営業の自由の現代的意義とその本質をどのように捉えるかが問われています。原告が他にも中心的に主張する表現の自由や法の下の平等といった日本国憲法に規定された人権についても、現代日本社会を生きる生身の人間の生に呼応する温かみを持つものなのかどうか、本訴訟における裁判所の判断は、我々の社会に無機質に転がる「権利」に息吹を吹き込むかが問われているのです。

3.統治について


次に、統治の文脈です。
本訴訟で問題にする新型インフル特措法は、与野党の密室協議で国会提出前に事実上成立し、我々個人及び主権者の代表である国会での審議は実質的に行われることなく形骸化されてしまいました。その形骸化した立法権からまるで白紙委任を受けた行政権は朝令暮改で法律の委任の範囲を明らかに逸脱した政令や告示によって我々の権利自由の制限リストを増やしております


立法プロセスにおいて法律の目的手段及び立法事実の存在等、合憲性の審査を事実上経なかった法律を審査できるのは、ここ、裁判所しかありません。


以上のとおり、人権及び統治の観点から、司法と日本国憲法がこの日本社会において「生ける司法」そして「生ける法」として機能しているかが問われているとともに、これまでの先例等々の射程に捉われることなく、2021年、コロナ禍を経験した社会におけるアップデートされた判断が求められています。

4.我が国の「権利の情況」で求められる正義の原理


冒頭、「権利の情況」としたのは、『正義論』の著者であるジョン・ロールズの「正義の情況」からのパラフレーズです。


ロールズは、社会を「相互の利益を目指す、協働の冒険的企て」と定義し、一人で生きるよりも皆で生きていく方がより良いが、同時に、利益と負担が適切に分配されるための正義の原理が要求される社会の状態「正義の情況」と設定しました。
現代コロナ禍の日本社会で行われた政治決定や法政策において、果たして適切な利益と負担の分配が行われたでしょうか。そこに正義の原理は存在していたでしょうか。
私は、ここまで行われた政治的決定や法政策に正義の原理が存在していたとは思いません。
自分の意思や努力ではどうにもならない理由で自己の尊厳が傷つけられ、生の構想が踏みにじられた人や、合理的理由や科学的根拠が示されないまま一部の人や事業者のみが不合理かつ不条理な権利自由の制約を受け続けているのです。
私たちは、今まさに正義の原理に基づいた救済を必要とする「権利の情況」に立たされています。
我々は4月1日付「訴訟の進行に関する意見書」において

「東京都知事において本件命令の要件該当性や合法性の問題に真摯に向き合わなければ(中略)強権的かつ恣意的に権限が発動され、さらなる違法な命令の発出が行われる可能性が強く危惧される」

と指摘しました。また、本年4月9日付で別紙事務連絡が内閣官房から東京都に対して発出されており、要請・命令の際の一層の合理性や公正性が要求されています。


しかし、これらが顧みられることなく、現在も法的・科学的根拠が薄弱な3回目の緊急事態宣言が発令され、法的強制力のない「要請」と、市民社会の相互監視・同調圧力によって、救済の途も示されないまま、我々個人と社会の自由は収縮し続けています。これが、現在の我が国の「権利の情況」です。


この法廷は、今お話した我が国の「権利の情況」で求められる正義の原理を示せるのか、その最後の砦になれるのかということが問われているのです。


私は、法律家として、日本国憲法が保障し構築する人権と統治システムがまだ機能することを信じています。

この法廷が、日本社会で、選ばずして「相互の利益を目指す、協働の冒険的企て」を行わざるを得ない私たち一人一人の希望になることを願って、意見陳述とさせていただきます。


                                以上

                        

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