普遍量を追い求めて
Joule氏は、運動している液体の摩擦によって熱が「発生する」ことを発見したが、この注目すべき発見や、電磁エンジンを用いたいくつかの有名な実験は、力学的効果をカロリックに変換することを現実に示しているものと思われる。とはいえ、その逆の操作を目の当たりにさせてくれるような実験は一例も提示されていない。
自然哲学の根本的疑問であるこれらの点については、多くのことが今尚、「神秘」のうちに潜められていると告白せざるを得ない。
W. Thomson, 1848
今回は、「絶対温度」の単位にもなっているケルビン卿(ウイリアム・トムソン)の言葉です。当時の科学者の間で、熱というものがどう捉えられていたかというのが、非常によくわかります。
1848年、トムソンはとてもいいことを考えました。結論から言うと、「カルノーサイクル」を使って温度目盛の規準を決めたのです。
何故そんなことを?と思うかもしれませんが、温度測定の歴史を簡単に振り返ってみましょう。
1701年にニュートンが、アルコールの温度膨張を利用した、ガラス管温度計を提案します。すなわち、ガラス管に入れたアルコールの液面が、「融解しつつある氷の温度」と「血液の温度」を定点として、その間を上下する幅を12等分した目盛りを持つというものです。
これに対し、ファーレンハイト(中国語で「華倫海」なので「華氏」と呼ばれる)は1720年、ニュートンの温度計の低温側を拡張します。手軽に作れる低温として、「氷水と塩化アンモニウムの混合物」の温度を最低点とし、これと「血液の温度」との間を、12等分の8倍の96等分しました。これは、温度計の精確さを吟味したためです。
これは後に、1724年に彼の手によって「水銀温度計」が公開されると、「水の氷点32度」、「沸点212度」が得られ、華氏温度はこれらを定点として修正されます。さらに1740年、セルシウス(日本での当て字で「摂爾修」なので「摂氏」)が現在の摂氏温度(℃)を提唱し、現在に至ります。
(温度の歴史についてはいろいろな説があります。正確なところはわかりませんが、セルシウスよりもファーレンハイトの方が先に、様々な液体について「沸点が一定になること」を見出していたようですが、これを定点とすることは口外していなかったようです。)
・蛇足( 1 ) 温度計に水銀を使うのがいいのは、ガラスは水銀で濡れにくいため、アルコールのように「履歴」が起こらないからです。
・蛇足( 2 ) 「摂氏 t 度」と「華氏 f 度」の換算式は次の通り。
f = (9/5) t + 32
さて、これらはどれも物質の「大気圧下での相変化」の温度を基準に、物質の体積膨張で測定した結果の値であり、物質や環境に依存します。物質に依存した基準を決めるのは、理想的には純物質を考えればいいわけですが、実際には再現性があまり良くないため、望ましくありません。
余計な話ですが、つい最近も「質量」について、「キログラム原器」と呼ばれる分銅の重さとされていた定義が廃止されました。いくら「原器」といえども物質である以上、風化による変化は免れません。
そこで、アインシュタインの有名な等式
E = mc^2
という、「エネルギーと質量の等価性」から、質量をエネルギで定義することが考えられました。エネルギの値は、「エネルギ量子」の最小単位である「プランク定数」
h = 6.626 070 150 × 10^(−34) J s
により、精度良く定義できるという事が提案されたわけです。
(さらに蛇足ですが、エネルギという概念は、具体的な個々の物理現象を俯瞰して出てくるものなので、大抵のものはここに帰着できてしまいそうだとは思います。)
さて、温度の話に戻りまして、トムソンは、(以下引用)
それゆえ、物理科学の現状からすれば、つぎに述べるような極めて興味深い疑問が立ち現れてくる
―――「絶対的な測温目盛の基準となる何らかの原理があるのだろうか?」
私見によれば、熱の「仕事」(motive power)に関する Carnot の理論が決定的な答を与えてくれるものと思われる。
と考えたわけです。
そして、彼の与えた温度目盛の定義から、我々はカルノーサイクルにおける「不変量」を見出すことになります。
■追記1
二つのトムソンの言葉は、
「熱学の諸原理」 E. Mach 著、高田誠二 訳
東海大学出版会 「物理科学の古典 4」
からの引用です。私が学生の時分、大学の図書館で見つけました。悲しいことに、この本は当時で「絶版」となっています。
尚、「東海大学出版会」となっていますが、私は東海大学出身ではありません。電気工学の教科書の多くが「電機大学出版会」から出されているのと同じようなものですね。
■追記2
しかし、この
「単位の再定義」
の過程というのは、普遍的な事象や普遍量を追求する、科学らしい活動であると言えます。
この広大な宇宙の、地球というほんのちっぽけな星に偶然生まれた、人類という塵にも等しい存在が、宇宙全体を把握するのに通用する量を見出すという、とてもロマンがある話だと思います。